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    July 27

    瀋陽故宮の古写真ー中国のネットよりー

     

    先週末にこんなのを見つけた。

    沈阳故宫老照片_网易新闻中心  (2009.7.24アクセス)

    http://history.news.163.com/09/0717/12/5EE30FMJ00013DU8.html

     

    瀋陽故宮の清寧宮と鳳凰楼の写真(絵葉書、明信片)。

    時代はおそらく1920~1930年代か。

    October 27

    内廷の建築群

     南の大清門から北へ歩き、崇政殿を過ぎると、高台に建ったひときわ高い建物が目に飛び込んでくる。それが鳳凰楼、皇帝、皇族が暮らす内廷への門でもある。

     内廷は高さ約3.8mの高台の上に築かれ、塀によって取り囲まれた空間となっている。 塀の外側には警備のための巡回路も設けられている。

    鳳凰楼 内廷北側入口

    内廷南側入口 鳳凰楼(2004年4月撮影)、北側入口(2004年8月撮影)

    塀の外側にも巡回のための通路が設けられている

     

     漢族の宮殿建築では、天子が政治を行う外朝の宮殿が最も高い位置に築かれるが、瀋陽故宮では皇帝、皇族の生活空間である内廷が最も高い位置にある。これは、女真族(満洲族)の山城の様式を受け継いだもの。

     

     女真族、すなわち後の満洲族がまだ東北の山や野原で生活していた頃、各部族の首長たちは防御に便利な丘の上に山城を築いて生活していた。

     山城は一般に外側の外城とその内側の内城という二つの部分により構成されており、外城には首長の配下、職人や兵士たちが居住し、内城には首長とその家族、親族が居住していた。内城は周囲から数メートルほど高くなっており、塀や土塁によって守られていた。このような築城プランは金代から明代女真の山城まで一貫して受け継がれている。 

     ヌルハチが遼東地方を征服する前に居住したフェアラ城(佛阿拉城、旧老城)、ヘトゥアラ城(赫図阿拉城、興京老城)も平らな河岸段丘上に築城され、外側の外城と、周囲から数メートル高い台地上の塀や土塁で囲まれた内城という二つの部分により構成されている。

     また明代女真族の山城では内城に高楼を築くケースもあった。イェヘ(葉赫)部のイェへ西城の「八角楼」がその代表的な例で、高楼は土や石で築いた土台の上に建てられ、周囲を見渡すのに便利で、また権威の象徴でもあった。日本の城の物見櫓や天守に似た存在かもしれない(松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』pp.49~51、pp.226~228)。

     

     つまり、瀋陽故宮の内廷のプランは女真族の山城、特に山城内側の内城を踏襲したものだということがわかる。

     

     内廷は鳳凰楼、ホンタイジとモンゴル、ホルチン(科爾沁)部出身の孝端皇后が暮らした清寧宮、これまたモンゴル出身の四人の妃たちが暮らす関雎宮、麟趾宮、衍慶宮、永福宮によって構成されている。

     なお鳳凰楼清寧宮は独立した項目で扱っているので、詳しくはそちらをどうぞ。

     

     下図は建築配置。

     瀋陽故宮内廷

    Google Earth 衛星写真(2008年10月14日アクセス)

     

     なお、文献によっては 関雎宮と衍慶宮、麟趾宮と永福宮の位置がそれぞれ入れ替わっているものがあるが、これは乾隆『盛京通志』記載の配置に基づいたもので、太宗時代の配置とは異なる。配置が入れ替わった原因は不明(扁額の掛け間違い?)だが、順治帝の生母である荘妃(孝荘文皇后)居住の永福宮を上位に変更したとも考えられる。 現在の瀋陽故宮では、太宗時代の配置に基づいている。

     

      これら妃たちの宮殿も万字炕と呼ばれるコの字型のオンドルを設けている。ホンタイジの四人の妃も後述するようにすべてモンゴル出身で、モンゴルの政治力と軍事力の取り込みを図った清朝の意図がよくわかる。

     

    関雎宮(満文:guwan jioi gung)

    関雎宮 

    関雎宮(2008年9月撮影)

    関雎宮 額

    右:漢文 関雎宮 左:満文 guwan jioi gung (2008年9月撮影)

     

     ホンタイジの寵妃、宸妃の住居。

     宸妃はモンゴル、ホルチン部のジャイサンの娘で、その名をハイランジュ hairanju といい、孝端文皇后の姪、荘妃の姉にあたる。宸妃はホンタイジの寵愛を受け、崇徳二年(1638)に男子を出産するが、生後一年にも満たず病死し、そのため命名もされていない。崇徳六年(1641)に宸妃が病死したときホンタイジは深く悲しみ、「元妃」の称号を追贈している。のちにホンタイジとともに昭陵に合葬された。 

     ホルチン部はチンギス=ハーンの弟ジョチ=ハサルを祖とする有力部族で、清朝(後金)はヌルハチ時代からホルチン部との同盟をはかり、以後清朝皇室とホルチン部は通婚を繰り返した。ホルチン部もよくその期待に応え、対明、対チャハル(察哈爾)部戦争において重要な戦力となった。 

     

    麟趾宮(満文:lin jy gung)

     貴妃の住居。

     貴妃は名をナム=ジュン nam jungといい、チャハル部のリグダン=ハーン(林丹汗)の妻の一人だったが、リグダン=ハーン死後に清朝に投降、ホンタイジの妃となった。のちにホンタイジの息子一人(和碩襄昭親王ボムボゴル(博穆博果爾))、娘一人を生んでいる。

     チャハル部はフビライ=ハーン、そしてモンゴルを再興したダヤン=ハーンを祖とする、元朝嫡流最後の部族だった。

     チャハル部征服後、リグダン=ハーンの妻スタイ太后と息子エジェイは元朝の玉璽「制誥之宝」を持って清に投降。スタイはイェへ部出身でホンタイジの母方の親戚(母方のおじの孫)にあたり、すでに後金(清)に仕えていた弟の説得により投降した。スタイは後にジルガランに嫁ぎ、エジェイはチャハル部の旧領を与えられ、後金の従属国となった。 

     チャハル部を支配下に納め、元朝の玉璽を手に入れたホンタイジは、モンゴルの王公たちからボグド=ハーン(神聖なるハーン)の尊号を奉られる。これはチンギス=ハーンの別号でもあり、ホンタイジが元朝の後継者としてモンゴルから承認されたことを意味する。

     これによりホンタイジは女真族としての国号「後金(アマガ=アイシン=グルン amaga aisin gurun)」を撤廃し、満洲・モンゴル・漢人を統合した国としての国号「大清(ダイチン=グルン daicing gurun)」に変更、以後清朝は元朝の後継者としての権威とモンゴル騎兵の軍事力をバックに北アジアに覇を唱えることになる。

     エジェイの死後、その弟アブナイがチャハル部を継ぎ、アブナイの息子ブルニの代の康熙十四年(1675)に三藩の乱に乗じ自立を目指して蜂起するが失敗し、チャハル王家は断絶。チャハル部は以後清朝の直轄領となった。

     

    衍慶宮(満文:hūturi badaraka gung)

     淑妃の住居。

     淑妃は名をバトマ=ゾー batma dzoo といい、彼女もリグダン=ハーンの妻の一人で、清朝に投降した後ホンタイジの妃となった。

     なお彼女はモンゴル人の娘を養女として育て、養女は後にドルゴンに嫁いでいる(松村潤氏の論考では、リグダン=ハーンとの間に生まれた娘としている)。

     

    永福宮(満文:enteheme hūturingga gung)

     順治帝の生母、荘妃(孝荘文皇后)の住居。

        荘妃(1613~1688)はモンゴル、ホルチン部のジャイサンの娘、名はブムブタイ bumbutai(漢語では布木布泰、または本布泰と表記)、孝端文皇后の姪、宸妃の妹にあたる。おばと姉妹二人が丸ごとホンタイジに嫁いだことになる。

     天命十年(1625)、ホンタイジに嫁ぎ、相次いで三人の娘を産み、崇徳元年(1636)ホンタイジが皇帝号を名乗ると同時に永福宮荘妃に封ぜられた。崇徳三年(1638)ホンタイジの第九子フリン、後の順治帝を生む。順治帝の即位後皇太后に封ぜられ、順治、康熙の二人の皇帝を補佐した後、康熙二十六年(1688)に死去、享年七十五歳。孝荘文皇后の諡号が贈られ、河北省遵化の昭西陵に葬られた。

     荘妃は清初政治史における重要人物で、その生涯は数々のエピソードに彩られている。今回はそれを紹介する余裕はないので、いずれ折をみて紹介していきたい。

    瀋陽故宮2005五・一 114 

    永福宮(2005年5月撮影)                                                        

     

     内部には満洲族伝統の天井から吊るすゆりかごが展示されていた。 

     瀋陽故宮2005五・一 116

    ゆりかご(2005年5月撮影)

     

    観光客多し 荘妃の説明

    いつも大盛況(共に2005年5月撮影)

     

     最近、清朝ブームとともに荘妃が登場する時代劇がよく放映されるようになり、常時観光客でにぎわっている。

     

    参考文献・サイト(順不同)

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005年

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年

    細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年

    松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選11、白帝社、1995年

    孫文良・李治亭『清太宗全伝』吉林人民出版社、1983年

    杜家驥 『清朝満蒙聯姻研究』人民出版社、2003年

    竺沙雅章監修・若松寛責任編集『アジアの歴史と文化7 北アジア史』同朋舎 1999年 

    承志・杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告――2005年遼寧・吉林踏査行――」『満族史研究』第5号、2006年、pp.55~84

    木山克彦「ロシア沿海地方金・東夏代城址遺跡の調査」『北東アジア中世遺跡の考古学的研究 平成十五・十六年研究成果報告書』2005年、pp.4~20 

    臼杵勲「女真社会の総合資料学的研究――その成果と展開――」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.4~13

    木山克彦「ロシア沿海州における金・東夏代の城郭遺跡」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版 2008年、pp.24~34

    木山克彦「シャイガ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.150~152

    木山克彦「ノヴォパクロフカ2城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.154~157

    木山克彦「ニコラエフカ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年、pp.158~159

    楠木賢道「清初、入関前におけるハン・皇帝とホルチン部首長層の婚姻関係」『内陸アジア史研究』14、1999年、pp.45~63

    松村潤「清初盛京の宮殿」『研究紀要』第四号、日本大学文理学部人文科学研究所、1962年 → 松村潤『明清史論考』山川出版社、2008年、pp.87~118

    松村潤「清太宗の后妃」『国立政治大学辺政研究所年報」第三期、1972年 → 松村潤『明清史論考』山川出版社、2008年、pp.198~216

    森川哲雄「ポスト・モンゴル時代のモンゴル――清朝への架け橋――」『中央ユーラシアの統合』岩波講座世界歴史11、岩波書店 1997年、pp.325~348

     

    Wikipedia(英文版) Borjijit, Empress Dowager Zhuang Wen(孝莊文皇后) (2008年11月2日アクセス) 

    http://en.wikipedia.org/wiki/Borjijit,_Empress_Dowager_Zhuang_Wen

    Wikipedia(中文版) 孝莊文皇后 (2008年11月2日アクセス)

    http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BA%84%E6%96%87%E7%9A%87%E5%90%8E

     





    October 04

    清寧宮

    清寧宮(満文:genggiyen elhe gung)

    一、清寧宮とその住人 

     瀋陽故宮の内廷の中心に位置する宮殿で、皇帝と皇后の居住空間、そしてシャーマニズム(中国語で薩満教)の祭祀が行われた場所。鳳凰楼一層の門をくぐると視界正面に飛び込んでくる建物。「口袋房」と呼ばれる建築様式や内部のコの字型オンドル(「万字炕」)など、満洲族の伝統が色濃く反映されている。

     清寧宮は太宗ホンタイジの天聡年間(1627~1635)に建てられ、ホンタイジとその妻孝端文皇后(1599~1649)が暮らした。 孝端皇后はモンゴル、ホルチン(科爾沁)部のマングスの娘で、名はジェレ jere、 関雎宮の宸妃と永福宮の荘妃(孝荘文皇后、順治帝の生母)のおばにあたる。彼女はホンタイジの三人の娘、皇二女マカタ・皇三女・皇八女を生み、マカタはチャハル部のエジェイに嫁ぎ、エジェイの死後弟アブナイと再婚し、皇三女、皇八女はそれぞれホルチン部のキタット(ヒャタド)、バヤスフランに嫁いでいる。死後、夫ホンタイジとともに昭陵に合葬されている。 

      

    清寧宮(正面から)

    清寧宮  正面から(2008年9月撮影)

    大清門、崇政殿と同じく五間硬山式の建築様式だが、入り口が正面右側に寄っている。

     

    清寧宮

    清寧宮  南西側から(2004年4月撮影)

      

    清寧宮

    清寧宮 殿額(2004年4月撮影) 

    左 満文:genggiyen elhe gung 右 漢文:清寧宮

     

     

    二、清寧宮の建築様式 

     清寧宮の建築様式は大清門、崇政殿と同じく五間硬山式建築で、外観もよく似ており、屋根の黄色と緑の瑠璃瓦、屋頂(大棟)の左右両端に置かれた鴟吻(しふん)、左右の隅棟の走獣、正面(南側)軒下の四角柱や斗拱(ときょう)など、大清門、崇政殿との共通点が非常に多い。

     だが、建物の構造は女真・満洲的要素が濃厚に表れている(平面図参照)。

     清寧宮  

    清寧宮平面図(『満洲の史蹟』p207)

     

      外部から見て最も特徴的な点は、入り口が中央ではなく正面右側(東側)に寄っていること。これは満洲族の伝統的な住居によく見られる様式で、中国では俗に「口袋房」と呼ばれる(口袋は袋、ポケットの意)。

     内部は大きく二つに分かれている。

     東側の小さな二部屋は皇帝、皇后の寝室とされ、夏は涼しい北側の部屋、寒さの厳しい冬は南側の部屋で生活していた。瀋陽は大陸性の気候のため気温の変化が激しく、夏の最高気温は30度以上、冬の最低気温は零下20度以下と、年間の気温差が50度以上にも達する。ホンタイジをはじめとする皇族たちは、北側の部屋と南側の部屋を上手に使い分けることでこうした過酷な気候にうまく適応していたらしい。

     入り口付近と中央、西側へかけての広い空間は、シャーマニズムの儀式が執り行われた場所で、北、西、南の三方の壁にコの字型のオンドル(炕 kang)をめぐらせ、北側にはいけにえの豚を煮るかまどが設けられている(平面図の二つの丸)。三方の壁にコの字型にオンドルを配置するのは、「万字炕」と呼ばれる満洲族の典型的な住居様式で、金代女真の遺跡にも出土例が見られる。

    万字炕と神龕、関帝

     万字炕。東側から撮影。西側の壁に神龕と関帝像が祭られている。

    (2008年9月撮影)

     

     西側の壁には神龕(しんかん、神棚や仏壇のようなもの)と神像(関帝像)が祭られている。満洲族は西側を上座とするため、神龕や神像は西側の壁に祭られる。

     満洲族のシャーマニズムは多神教で、観音、菩薩、道教の神々など多様な神々をとりこんでいるが、特に関帝(関羽)は武の神、忠義の神として満洲人に厚く信仰され、清朝が中国全土を支配した後には北京の八旗の居住地および全国各地の駐防八旗の居住地(満城)に必ず関帝廟が建立されるほどだった。

     余談ながら、この清寧宮に住んでいたホンタイジも大の『三国志』好きで、日ごろから『三国志演義』ばかり読んでいたため、漢人官僚から「三国志ばかり読んでいては物の見方が偏ってしまいます。政治のためには儒教や歴史の本をもっと勉強してくださいね」などと苦言を呈されている(『天聡朝臣工奏議』上、王文奎條陳時宜奏、天聡六年九月)

     

     なお、紫禁城の坤寧宮は元々皇后の住居だったが、清朝のものとなってから清寧宮をモデルに改装され、シャーマニズムの祭祀空間として利用されるようになった。

     

    三、祭天 ――シャーマニズムの祭祀――

     

    清寧宮かまど

    かまど(灶)いけにえの豚を煮るのに使用。

    (2005年5月撮影) 

     シャーマニズムの祭祀は清代には「祭天」と呼ばれ、文字通り天の神を祭るものだった。まずサマン(シャーマン)が神歌を歌いながら舞い踊って天の神や関帝を称え、次にいけにえの黒豚を殺してかまどで煮る。なお肉を煮るときには調味料を一切加えない。煮えた肉はまず神龕に供え、それから君臣がともに肉を分け合って食べる。いけにえの肉は「神肉」、「福肉」などと呼ばれ、これを分け合って食べることは、満洲の神と皇帝(愛新覚羅一家)と臣下の間に一種の家族関係が結ばれることを意味し、同時に『満漢一家』、『一心一徳』を唱える清朝にとっての重要なパフォーマンスでもあった。

     この儀式は北京の故宮の坤寧宮においても行われていたが、北京で生活し舌が肥えた臣下たちにとって、味付けされていない豚を食べるのはかなり苦痛だったようで、懐に忍ばせた塩をこっそり振りかけて食べる者もいたらしい。  

     屋内での儀式が終わると、先ほどのいけにえの豚の肉に米などを混ぜ、清寧宮正面にある「神杆(索倫杆)」と呼ばれるポールの頂上の錫でできた円斗(碗のようなもの)に盛り、皇室の祖霊とされたカササギに捧げた。

     初代皇帝ヌルハチの一代記である『満洲実録』冒頭には、カササギがくわえていた赤い実を食べた天女が身ごもり愛新覚羅氏の始祖を産んだという始祖神話や、先祖が反乱者に追われたとき「神のカササギ」に助けられたという伝説が記されており、清代にはカササギが一種のトーテムとして神聖視されていた。

     神杆(索倫杆)

     神杆(2008年9月撮影)

     

    参考文献・サイト(順不同)

    (参考文献)

    天聡朝臣工奏議』(『奏疏稿』)羅振玉編『史料叢刊初編』、1924年 →(影印本)文海出版社、1964年

    細谷良夫「校訂『天聡朝臣工奏議』天聡六年」細谷良夫編『中国文化とその周辺』東北学院大学中国学研究会、1992年、pp.349407

    (※羅振玉本は誤字、省略及び変更箇所が多いので要注意、校訂や他の写本もあわせ読むこと)

    今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年

    孫文良・李治亭『清太宗全伝』吉林人民出版社、1983年

    呉十洲『乾隆一日』山東画報出版社、2006年

    杜家驥 『清朝満蒙聯姻研究』人民出版社、2003年

    張玉興「論清兵入関的文化背景」『清史研究』1995年第4期→同著『明清史探索』遼海出版社、2004年、pp.122~139

    楠木賢道「清初、入関前におけるハン・皇帝とホルチン部首長層の婚姻関係」『内陸アジア史研究』14、1999年、pp.4563

    松村潤「清初盛京の宮殿」『研究紀要』第四号、日本大学文理学部人文科学研究所、1962年 → 松村潤『明清史論考』山川出版社 2008年、pp.87118

    松村潤「清太宗の后妃」(『国立政治大学辺政研究所年報」第三期 1972 → 松村潤『明清史論考』山川出版社 2008、pp.198216)







    October 02

    鳳凰楼(改訂版)

    鳳凰楼(満文:fung hūwang leo)

    瀋陽故宮中央の高台に位置する高楼。

    鳳凰楼

    鳳凰楼(2004年4月撮影)

     

    鳳凰楼 額(2004年8月撮影)

    左 満文:fung hūwang leo 右 漢文:鳳凰樓

     

    一、鳳凰楼について

     南の大清門から北へ歩き、崇政殿を過ぎると、ひときわ高い建物が目に飛び込んでくる。それが鳳凰楼、ホンタイジ(皇太極)時代の後宮への門でもある。

     写真の下側に見える階段は24段、これは二十四節季を表しているという。

     

     満洲(女真)族がまだ東北の山や野原で生活していた頃、各部族の首長たちはおのおの山城を築き、その頂上に高楼を築いた。高楼は土や石で築いた土台の上に立っており、周囲を見渡すのに便利で、また一種の権威づけでもあった。日本の城の物見櫓や天守に似た存在かもしれない。

     鳳凰楼はそういった満洲族の伝統的な建築様式を踏襲している。

     

     また、鳳凰楼の内側は皇帝、皇后の居住場所であり、塀と高台によって周辺から隔離することにより、警護を容易にするという意図もあったと思われる。

     この鳳凰楼がいつ建てられたかについては明確な史料は無いが、現存する最古の瀋陽地図である『盛京城闕図』(康煕八年(1669)頃)にはすでに鳳凰楼が描かれているので、遅くとも康煕年間初期には今の姿になっていたようだ(乾隆年間の増改築も多少入っているようだが)。ホンタイジ時代はもっと規模が小さかったらしい。

     

    盛京城闕圖』(中国第一歴史档案館蔵)

    以下のページで閲覧可能。中央やや左に 鳳凰楼が見える。

    振兴东北网 东北特色 文化 《尋找失落的“沈陽九門”》2004年12月6日

    http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/chinaneast.xinhuanet.com/2004-12/06/content_3337933.htm

     

     

     

     清代の盛京(瀋陽)では、この鳳凰楼が城内で一番高い建物で、城内のどこからでも見渡せ、「盛京八景」の一つ「鳳楼暁日」として讃えられた。乾隆帝、嘉慶帝、道光帝も鳳凰楼に登り、詩を詠んでいる。

     また、清代には『実録』や「大清受命之宝」など十数個の御璽がここに保管された。

     

     

    二、「紫気東来」という扁額について

    鳳凰楼扁額

    鳳凰楼第一層の乾隆帝御筆の扁額(紫気東来:高貴な気は東より来たる)

    なんだか彼の自己主張というか意気込みが垣間見えておもしろい。

    (2008年9月撮影 最近修復されたらしい)

     

     鳳凰楼の一階は後宮への門となっており、門の上に乾隆帝御筆の「紫気東来」という扁額が掲げられている。

     「紫気東来」とは「高貴な気は東より来たる」という意味で、もともと道家の「老子過函谷関、紫気従東而来(老子函谷関を過ぎ、紫気東より来る)」すなわち老子が函谷関を通過するとき、紫気(高貴な気、瑞祥)が東からやって来たという伝説に由来する。中国では古来縁起のよい言葉として扁額や対聯に用いられることが多く、現在でも非常によく見かける言葉である。

     

     だが、当然ながらここ鳳凰楼における「紫気東来」はそういった単純な意味ではありえない。
       そもそも、中国では「紫気」や瑞祥といったものが常に王朝の創始と結び付けられてきた。歴代王朝の正史の初代皇帝の本紀を読んでいると、必ずといっていいほど「紫気」とか「五色の気が立ち上った」とか「瑞祥が現れた」といった類の伝説が登場する。

     「紫気」という言葉だけをとってみても『梁書』卷一 本紀第一 武帝に

    時所住齋常有五色回轉 ,狀若蟠龍 ,其上紫氣騰起

    時に住む所の齋(はなれや)常に五色回轉する有りて ,狀(かたち)は蟠龍の若(ごと)し ,其の上に紫氣騰起す

    と見え、南朝梁の武帝蕭衍が皇帝に即位する前、住居の上に五色の気が渦巻いて、とぐろを巻いた龍に見え、屋根からは「紫気」が立ち上ったとある。また『隋書』卷一 帝紀第一 高祖にも

    皇妣呂氏 ,以大統七年六月癸丑夜 ,生高祖於馮翊般若寺 ,紫氣充庭

    皇妣呂氏 ,大統七年六月癸丑夜を以て,高祖を馮翊般若寺に於いて生む , 紫氣庭に充つ

    という用例が見え、のちに隋の高祖皇帝となる楊堅が生まれたとき「紫気」が庭に満ちたと述べられている。

     このように中国の歴史において「紫気」や「五色の気」、「瑞祥」といった言葉は、単なる超常現象ではなく、旧王朝の天命が尽き、新たなる皇帝と新王朝への天命が下った兆しとして扱われてきたのである。もちろん現代の視点から見れば、これらの伝説は単なるまやかしでしかないが、前近代の中国においては新王朝と新皇帝の中国支配の正当性を保証する重要な意味を持っていた。

     そもそも王朝にはむかうものは全て「賊」ー謀反人ーとされる中国では、前王朝を倒し新王朝を開く皇帝は「普通ではない」人でなければならない。つまり「この人なら謀反を起こしてでも皇帝になる資格がある」と思わせるもの、言い換えれば「謀反」という「無理」を正当化できるだけの裏づけ、すなわち瑞祥や「紫気」があってはじめて謀反人の汚名から脱却し、正統な皇帝として中国を支配できるのだ。

     

     つまり、ここでの「紫気」は「高貴な気を持つ」清朝の創始とその正当性を、「東来」は清朝が東から北京に攻め込み、中国本土を統一したことを意味している。そして鳳凰楼が清王朝の歴史を記録した『実録』や「大清受命之宝」(「天命を受けた清朝」という意味!)を初めとする歴代皇帝の玉璽を保管する場所でもあったことを思えば、「紫気東来」のもつ意味はよりはっきりとする。

     

     このように「紫気東来」という扁額は、道家の言葉を借りて、清朝が「紫気」すなわち中国を支配する正当性を身につけていること、そして中国の東側にある盛京(瀋陽)から中国本土を征服し、いままさに正当に統治していることを高らかに宣言したものなのである。

     今、扁額をじっくり見つめてみると、その力強い筆跡から乾隆帝の自己主張というか意気込みが垣間見える気がする。

     

     

    参考文献・サイト(順不同)

    (参考文献)

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』 1991年

    松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選11、白帝社、1995年

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年

    竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか――中国の歴史書を読み解く――』あじあブックス042、大修館書店、2002年

    (サイト)

    振兴东北网  东北特色 文化 《尋找失落的“沈陽九門”》2004年12月6日(2006年8月6日アクセス)

    http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/chinaneast.xinhuanet.com/2004-12/06/content_3337933.htm

     

    中央研究院漢籍電子文献 二十五史(2008年10月2日アクセス)

    http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3



    戯台

    戯台

    皇帝、皇族のために劇を上演する舞台。乾隆四十六年~四十八年(1781~1783)ごろ竣工

     

    瀋陽(08.9.6~9.7) 169 

    戯台(2008年9月撮影)

    舞台後ろの長方形の建物は舞台裏の控え室(扮戯房)

     

     戯台は皇帝、皇族のために劇を上演する舞台で、瀋陽故宮の西路の南端に位置している。

     乾隆帝は芝居好きで知られ、紫禁城の暢音閣を初めとして、中南海、北海、円明園、熱河の避暑山荘など、いろいろな場所に戯台を建てて観劇を楽しんだ。乾隆五十五年(1790)、乾隆帝の八十歳の誕生日を祝うために、各地の劇団が北京に集結したのが京劇誕生の契機となったことは有名。

     

     2008年9月に筆者が瀋陽故宮を見学した際にも、戯台の回廊に清代演劇史や各地の戯台の写真パネルが展示されていた。

     

     瀋陽故宮の戯台も芝居好きの乾隆帝のために造営されたもので、乾隆帝の第四次東巡(1783)に合わせ、乾隆四十六年~四十八年(1781~1783)ごろ竣工。乾隆帝や嘉慶帝、道光帝は盛京滞在時ここで観劇を楽しんだ。

    瀋陽(08.9.6~9.7) 167 瀋陽(08.9.6~9.7) 168

    戯台周囲の回廊(2008年9月撮影)

     

     

     戯台は北向きに作られており、皇帝は向かい側の嘉蔭堂で南側に向いて座り、大臣たちは回廊に列席し、芝居見物を楽しんだ。

     戯台は南が舞台裏の控え室(扮戯房)、北が嘉蔭堂、東西が回廊によって囲まれた閉鎖空間で、これは上演時の音響効果をねらったものらしい。

    戯台(瀋陽故宮)

    戯台周辺の建築群(Google Earth 衛星写真 2008年10月2日アクセス)

     

    参考文献・サイト(順不同)

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年

    平林宣和「紫禁城の古戯台」月刊『しにか』2000年4月号、pp66~67、2000年





    September 13

    太廟

    太廟(満文:taimiyoo)

     

     中国皇帝が皇室の祖先祭祀を行う場所。清朝では盛京(瀋陽)と北京の二か所に設けられている。瀋陽故宮の太廟は乾隆四十六年(1781)に撫近門(大東門)外から大清門東横に移築されたもの。

     現在は非公開。

     

    瀋陽(08.9.6~9.7) 173

    太廟門(2008年9月撮影)

     

    瀋陽(08.9.6~9.7) 175

    南西側から(2008年9月撮影)

     

    瀋陽(08.9.6~9.7) 177

    門額(2008年9月撮影)

    左 満文:taimiyoo duka 右 漢文:太廟門

     

     一、太廟について

     太廟とは、中国歴代王朝において皇室の祖先の霊を祭る場所のことで、宗廟とも呼ばれる。古来中国王朝では、宗廟において祖先を祭祀し、社稷壇において社稷(土地神と穀神)を祭ることこそがもっとも重要な勤めとされ、後には宗廟と社稷は国家そのものを意味する言葉ともなった。

     『周礼』考工記では「左祖右社」、すなわち南面する宮殿から向かって左(東)に祖先を祭る宗廟を、右(西)に社稷壇を設けるとされており、歴代の各王朝もこれに従った。

     北京の故宮でも天安門の東に太廟(労働人民文化宮)が、西側に社稷壇(中山公園)が残っている。

     

     二、盛京の太廟 

     盛京(瀋陽)の太廟は崇徳元年(1636)、女真族の後金国ハン、ホンタイジが国号を「大清」と改め、満洲、モンゴル、漢三民族を支配する皇帝を称した時に造営されたのが始まり。

     当時の太廟は盛京の撫近門(大東門)外五里(約2.88km 清代の一里は約576m)の地点に建立され、太祖ヌルハチとホンタイジの生母モンゴ=ゲゲ(Monggo gege  孟古格格、孝慈高皇后)、そしてヌルハチの祖先メンテム(Mentemu 孟特木、肇祖原皇帝)、フマン(Fuman 福満、興祖直皇帝)、祖父ギオチャンガ(Giocangga 覚昌安、景祖翼皇帝)と父タクシ(Taksi 塔克世、顕祖宣皇帝)の神位(位牌)が祭られており、清明節などの祭日にはホンタイジ自らが祭祀を行った。

     だが、清朝の北京遷都後の順治五年(1648)、これらの位牌は北京の太廟へと移され、以後盛京の太廟は空き家となった。

     

     一方、現在太廟が建っている大清門東横には元々明代から続く「三官廟(景佑宮)」と呼ばれる道観があり、ヌルハチやホンタイジによる宮殿造営後も撤去されることなく大清門横に立っており、歴代皇帝による尊崇を受けていた。

     崇徳五年(1641)に松山・錦州の戦いで、松山を守っていた薊遼総督洪承疇が清に投降した際に、しばらくの間この三官廟に抑留されている。

     康熙八年(1669)頃に描かれた盛京(瀋陽)の地図『盛京城闕圖』でも大清門の横に廟が描かれている。

     

     乾隆四十三年(1778)の第三次東巡(東北行幸)の際、乾隆帝は盛京の太廟と社稷壇を復興させることとし、前述の「左祖右社」の原則に従い、宮殿の正門たる大清門東側の三官廟の位置に太廟を移築することを決定、乾隆四十六年(1781)に竣工している。

     これに伴い元の三官廟は徳盛門(大南門)内に移転している。

     

     乾隆四十八年(1783)北京から太祖ヌルハチから世宗雍正帝までの五代の皇帝と皇后計十六人の玉宝(皇帝、皇后の諡号を刻んだ玉璽)と、玉冊(玉の板に諡号を奉る文が刻んだもの)が移送され、北京の太廟に祭られている歴代皇帝、皇后の神位の代わりを務めさせることとなった。

     これにより、盛京の太廟でも礼制に従った祖先祭祀が復興し、以後も皇帝の代替わりごとに玉宝と玉冊が盛京の太廟へと送られた。

     管理人が96年に瀋陽故宮を訪れた際には、太廟内部も見学可能で、正殿に太祖ヌルハチと皇后、建国の功臣フィオンドン(Fiongdon、費英東)、エイドゥ(Eidu、額亦都)の神位が祭られ、清代の様子が再現されていた。

     羅麗欣 文 佟福貴 図『瀋陽故宮』によると、内部は現在でもヌルハチと皇后、功臣や祖先たちの神位が祭られているようだ。

     

     三、太廟の構成と建築様式 

     太廟は、大清門横に建てられ、他の建築群とは塀によって隔離されている。

     内部は、正面の正殿、東側の東配殿、西側の西配殿と、南正面の門によって構成されている。

    太廟(瀋陽故宮)

    Google Earth衛星写真(2008年9月13日アクセス)

     

     建築様式で特徴的なのは、屋根瓦がすべて黄色だという点で、瀋陽故宮の他の宮殿建築の屋根が黄色の瑠璃瓦の外側に緑の瓦の縁取りを配しているのとは大きく異なる。

     これは、皇帝の祖先を祭る太廟が宮殿の中でも最も高い、特別な地位にあることを表したものである。

        

    参考文献・ウェブサイト(順不同)

    (参考文献)

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    (ウェブサイト)

    中央研究院漢籍電子文献(2008年9月13日アクセス)http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

    『周禮』考工記 該当部分(2008年9月13日アクセス) 

    http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=-61456353&path=/1.4.42.11.8.1






    June 10

    文徳坊と武功坊

     

    文徳坊(満文:bithei erdemui eldembure pailu) 

    武功坊(満文:coohai erdemui mukdembure pailu)

      

     瀋陽故宮の大清門外東西に建てられた牌坊(牌楼)。

     文徳坊と武功坊は瀋陽故宮の正門である大清門の東西に建つ牌坊で、東が文徳坊、西が武功坊となっている。文徳坊と武功坊はそれぞれ崇徳二年(1637)に建てられ、文字通り清朝の「文徳」と「武功」を讃えたものである。

    瀋陽故宮配置図

    瀋陽故宮配置図(google衛星写真を元に作成、2008年4月)

    瀋陽故宮  文徳坊

    文徳坊(満文:bithei erdemui eldembure pailu)2004年4月撮影

    瀋陽故宮

    武功坊(満文:coohai erdemui mukdembure pailu)2004年4月撮影
    奥に見えるのが文徳坊

     

      牌坊とは忠孝貞節の人物や功績のあった人物を讃えるために建てられた門のような建築物のことで、中国や海外の中華街で非常によく見られる。

     牌坊は牌楼とも呼ばれ、厳密には屋根のついているものが牌楼、屋根のついていないものが牌坊とされるが、実際にはほぼ同じ意味で使われている。

     牌坊の起源は、中国古代都市の里坊の門であった。古代の都市は城壁に囲まれ、さらに都市内部も碁盤の目状に区切られており、この区画を里坊という。里坊は壁によって囲まれ、門を通じて出入りするようになっており、夜間の通行は厳重に取り締まられた。

     この里坊の門に、功績のあった人物とその事跡を掲示したのが牌坊の由来とされる。

     牌坊は、宋代以降に里坊制がすたれたことにより門としての意味は失われ、単なるシンボルとしての建築物となり、形状も次第に優美になっていった。

     

     文徳坊と武功坊にはそれぞれ満洲、モンゴル、漢語の三言語によって書かれた扁額が掲げられている。それぞれ中段と左端が漢文、上段と左端の小さな字が満文、下段と右端の小さな字がモンゴル文となっている。

    文徳坊

    文徳坊の額(2004年4月撮影) 

     

     文徳坊の額は

    漢文:文徳坊

    満文:bithei erdemui eldembure pailu

    漢文:崇德二年孟春吉日立

    満文:wesihun erdemunggei jai aniya niyengniyeri biyai sain inenggi  ilibuha 

     

     

    武功坊
    武功坊の額(2004年4月撮影)

     

     武功坊の額は

    漢文:武功坊

    満文:coohai erdemui mukdembure pailu 

    漢文:崇德二年孟春吉日立

    満文:wesihun erdemunggei jai aniya niyengniyeri biyai sain inenggi  ilibuha 

     

    となっている。

     

     面白いのは、「文徳」と「武功」の「徳」と「功」が満洲語では両方とも「erdemu」になっているところ。

     手元の辞書を引いてみると、erdemu は、徳、才、才能など、非常に広い意味を持った言葉らしい。

    ・・・・・・・・・

    参考文献 サイト(順不同)

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    劉厚生等編『簡明満漢辞典』河南大学出版社、1988年

     

    『ウィキペディア(Wikipedia)』 牌坊 (2008年6月10日アクセス)

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%8C%E5%9D%8A





    May 12

    奏楽亭

    奏楽亭

    奏楽亭

    奏楽亭 東路西南 十王亭鑲藍旗亭南(2005年5月撮影)

     

     宮廷での各種儀式、典礼の際に音楽を演奏するための場所。

     清太宗天聡年間(1627~36)、すなわちホンタイジ即位後、中路(中央部)の建築と共に建てられた。

     奏楽亭は東路の十王亭の南に東西各一座、大清門の南、道路を挟んで向かいに東西各一座、計四座が設けられた。

    瀋陽故宮配置図

    瀋陽故宮配置図(google earth 衛星写真により作成 2008.4)

    ・・・・・・・・

    参考文献

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年




    大清門

    大清門(だいしんもん 満文:daicing duka)

    大清門

    大清門(2004年4月撮影)崇政殿、清寧宮と同じく、五間硬山式の建築様式。

     

     大清門は、瀋陽故宮の中央南に位置する宮殿の正門であり、清代には午門とも呼ばれた。建築年代は天聡年間(1627~35)で、崇德元年(1636)に正式に大清門と命名。文武百官や外国使節はここでホンタイジの出御を待ち、またホンタイジがここで臣下や外国使節に賞賜を与えるなど、多くの典礼がここで行われた。

     

    瀋陽(08.9.6~9.7) 012

    門額(2008年9月撮影)

    左 満文:daicing duka 右 漢文:大清門 

    大清門の屋内に掛けられている

     

     建築様式は崇政殿、清寧宮と同じく五間硬山式で、特に崇政殿とは屋根の鴟吻(虬吻)、建物の正面左右端(墀頭)の瑠璃の浮き彫り、軒下の四角い柱や斗拱(ときょう)など共通点が非常に多い。

     外側の「沈阳故宫」の扁額は戦後に掛けられたもので、郭沫若の筆。

     

     門の前には二匹の石の獅子が座っており、門を守護している。

      大清門

    大清門(2004年4月撮影)軒下の斗拱、四角柱も崇政殿、清寧宮と共通

    「沈阳故宫」の扁額は郭沫若の筆

     

    ・・・・・・・・

    参考文献

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年




    May 11

    崇政殿

    崇政殿(満文:wesihun dasan i diyan)

    崇政殿

    崇政殿(2004年4月撮影)

      崇政殿 

     

    崇政殿 満漢合璧の額

    (満文:wesihun dasan i diyan 崇高なる政治の宮殿 2005年5月撮影)

     

     大清門をくぐると正面に見えてくる宮殿で、瀋陽故宮の正殿。太宗ホンタイジはここで政治を行い、外国使節の朝見の儀式や饗宴もここで行われた。天聡年間(1627~35)に完成、崇德元年(1636)正式に崇政殿と命名された。北京への遷都後も、皇帝の東巡(東北への行幸)時にはここで政務や典礼を行った。

     崇政殿は硬山式と呼ばれる中国北方地区によく見られる建築様式で建てられている。硬山式は日本建築の切妻造に近いが、左右の側壁(山牆)が屋根の上端より少し高い位置まで延び、左右の軒先が外側へ張り出していない点が異なる。崇政殿は間口が五間(柱四本、柱間に五つの空間)の五間硬山式で、大清門や清寧宮と共通の様式となっている。

    硬山式

    硬山式(『漢語大辞典』縮印本 P4510)

     

     屋根は他の建築物と同じく黄色い瑠璃瓦を用い、緑の瑠璃瓦で縁取りされ、左右の隅棟には走獣が置かれている。

     大棟(屋頂)の左右両端には鴟吻(しふん 螭吻 ちふん)と呼ばれる神獣の像が置かれている。鴟吻は「龍生九子」、すなわち龍が生んだ九匹の子の一匹で古来雨や水をもたらす神として崇拝されており、建物を火災から守る役割を担っている。そして龍の一族である鴟吻は、龍の化身たる中国皇帝が利用する建築物にのみ置くことが許される高貴な装飾でもある。

     また大棟の左右両端は、側壁と屋根の前後の勾配の三面が交わる場所で非常に隙間ができやすいため、鴟吻の像を置くことによって密封し、雨漏りを防ぐという実用的な意味もある。

     なお、日本のしゃちほこはこの鴟吻が変化したものらしい。

    崇政殿鴟吻

    鴟吻 口を開いて水を吐き出している(2005年5月撮影)

     

     建物正面(南側)の軒下の柱は四角形の柱が用いられ、軒には斗拱(ときょう)と呼ばれる枡形の飾りが取り付けられているが、これはチベット仏教寺院によく見られる手法。

    四角形の柱と上部の斗拱(枡形の飾り)、入口左右の斗拱には首をもたげた龍の彫刻が取り付けられている(2008年9月撮影)

     

    正面左右角(墀頭)には瑠璃の浮き彫りがあり、これは大清門とも共通している。

      

     内部には玉座(宝座)が置かれ、その両側には天空を舞う二匹の龍、後ろ側には金色の屏風があり、非常に威厳のあるつくりとなっている。

     崇政殿

    崇政殿宝座(玉座)(2004年4月撮影) 

    崇政殿宝座(玉座)(2008年9月撮影) 

    宝座真上の天井に掲げられた扁額「正大光明」 (2008年9月撮影) 

     

     正面から見て左右にはそれぞれ、嘉量(枡、容積の原器)と日晷(にっき、日時計)が置かれている(写真一枚目参照)。これらは乾隆十一年~十三年(1746~48)頃行われた、崇政殿と宮殿中路(中央部)の増改築の際に置かれたものである。

     宮殿正面に容積の原器と日時計が置かれている理由は、これこそがまさに中華帝国と中国皇帝のシンボルだからである。始皇帝が天下統一後に度量衡を統一したように、中国では度量衡は古来から国家統一の象徴とされてきたし、時間つまり暦とは天の子たる皇帝が臣民に授けるもので、皇帝の権威の象徴であった。つまり、この一見何の変哲もない枡と日時計は国家の統一、そして皇帝の権威を象徴する重要な意味を持っている。

    2004.8.26 瀋陽故宮 032瀋陽故宮2005五・一 010

    嘉量(2004年8月撮影)              日晷(2005年5月撮影)

     

     

     崇政殿左右には、それぞれ左翊門と右翊門という小さな入り口があり、鳳凰楼や後宮へと通じている。

     

     崇政殿が現在の姿になったのは、前述の乾隆十一年~十三年(1746~48)頃にかけて行われた崇政殿および宮殿中路の大規模な増改築の後らしい。

     ただ、順治元年(1644)盛京(瀋陽)を訪れた日本の漂流民が書き残した記録『韃靼漂流記』には当時の様子について、

    一、韃靼の都は、日本道二里四方ほど御座候。其中に王の御座候処、日本にての城の様子にて候。・・・・・・大形は日本にて堂寺などのごとく、如何にも大きく造り、丸柱にて、瓦は薬を懸候て、五色に光り申候。又常の瓦も御座候(後略)                                             

     

    とあり、太宗時代から宮殿に瑠璃瓦を使用していたらしいので、当時の崇政殿も瑠璃瓦を使用していたかもしれない。

     

    ・・・・・・・・

    参考文献・サイト(順不同)

    (参考文献)

    園田一亀『韃靼漂流記』平凡社東洋文庫539、1991年

    (原著:園田一亀『韃靼漂流記の研究』南満洲鉄道株式会社鉄道総局庶務課、1939年) 

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年

    『漢語大辞典』縮印本、漢語大辞典編輯委員会、漢語大辞典編纂処編纂、漢語大辞典出版社、 1997年 

    西村康彦「紫禁城の神獣・幻獣たち」月刊『しにか』2000年4月号、pp58~65、2000年

    (サイト)
    『ウィキペディア(Wikipedia)』 螭吻/鴟吻  (2008年5月30日アクセス)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%9F%E5%90%BB
    『百度百科』 鴟吻  (2008年5月30日アクセス)

    http://baike.baidu.com/view/83627.htm









    May 04

    大政殿と十王亭

     大政殿と十王亭は図のように瀋陽故宮東側に位置。大政殿を頂点として十王亭が八の字型に並んでいる。

     大政殿はハン(皇帝)が鎮座し、十王亭は八旗の諸ベイレ(beile、貝勒、旗王、八旗各旗を支配する王)や大臣たちが事務を執り行う場所で、八旗亭とも呼ばれる。大政殿の建築様式は北方騎馬民族の移動式テント(ゲル)を思わせ、また大政殿と十王亭によって構成される建築群は北方騎馬民族の幕営(本陣)を思わせる配置で、八旗制度を色濃く反映したものとして非常に有名。

     

    瀋陽故宮配置図

    瀋陽故宮配置図(Google earth 衛星写真により作成 2008年4月)

     

     今回はまず大政殿を紹介。その後で十王亭ともあわせて建築群全体の性格について書いていきたい。

     

    一、大政殿の建築

    大政殿(満文:amba dasan i diyan)

    瀋陽故宮2005五・一 014

    大政殿(2005年5月撮影)

      大政殿 殿額

    大政殿 殿額(2008年9月撮影) 

    左 満文:amba dasan i diyan 右 漢文:大政殿

     

     大政殿は瀋陽故宮東側(東路)の北に位置する宮殿で、清朝初期はハンが八旗各旗のベイレ、大臣たちを集めて政治や軍事の諸問題について議論し、政策決定を行った。また国家的な儀式・典礼や宴会もここで行われた。

     

     1625年ヌルハチが瀋陽に遷都後すぐに造営が始められた。清朝初期は大衙門・大殿・篤恭殿などと呼ばれていたようだが、それがいつ「大政殿」と改められたかははっきりしない。ただ、遅くとも康煕年間にはすでに大政殿と呼ばれていたらしい。

     清初の史料にはこの「大衙門」や「大殿」にハンとベイレ、大臣たちが集まって会議をしている様子が数多く記載されている。これは「議政王大臣会議」とよばれるもので、当時の国家の最高の意思決定機関だった。

     

       大政殿は高さ約18m、八角形の建物に八角形の屋根が乗っており、釘を一本も使用せずに建てられている。形状はモンゴル族など北方民族の移動式テント(ゲル)に似通っている。

     また、清朝のシャーマニズムの儀式が行われた堂子の祭天殿も八角形であり、このような八角形の建物は遼陽の東京城にも建てられており、八角形の宮殿が伝統的に満洲人に好まれたことが分かる。

     すなわち大政殿の様式は満洲(女真)族、モンゴル族双方の伝統的な様式にのっとったものであると言える。

     屋根は黄色の瑠璃瓦が葺いてあり、緑の瑠璃瓦で縁取りがなされている。
     屋根の頂点には宝珠があり、そこから放射状に8本の屋脊(隅棟)が伸びていて、その上には走獣が乗っており、火災や落雷、風水害などから建物を守護する役割を担っている。

     入口の柱には二頭の竜が巻きついている。

     また、大政殿はハン(皇帝)が鎮座する中心的な建築物であるにも関わらず基壇は低い位置にあり、瀋陽故宮で一番高い位置にあるのは、皇帝・皇后の居住空間である内廷、すなわち鳳凰楼と清寧宮を中心とする建築群である。
     これも満洲族の伝統的な様式を受け継いだものであり、北京の紫禁城に代表される漢族の宮殿建築とは大きく異なっている。

     

    二、大政殿内部―扁額と対聯に見る満洲的精神―

    瀋陽(08.9.6~9.7) 117

    大政殿内部(2008年9月撮影)

     


     内部には玉座(宝座)と屏風が置かれている。なお現在置かれている玉座は1970年代に北京故宮の皇極殿から移動したものという(細谷良夫 編『中国東北部における清朝の史跡―1986~1990―』P26)

     

     その後ろには乾隆帝御筆の扁額と対聯が掲げられている(乾隆二十二年(1757)筆)。

     20世紀初めの古写真も載せておく。

    大政殿内部(20世紀初)

    大政殿内部(20世紀初 内藤虎次郎 『満洲写真帖(増補版)』
    →遼寧省図書館編『盛京風物―遼寧省図書館蔵清代歴史図片集―』P30)

     

     まず、扁額には乾隆帝の力強い筆跡で

    泰交景運

    と記されている。

     泰交とは『周易』(易経)泰の

    泰小往大來、吉亨。

    彖曰 泰小往大來、吉亨則是天地交而萬物通也。上下交而其志同也。

    (読み下し)

    泰は小往き大來る、吉にして亨(とほ)る。

    彖(たん)に曰く、泰は小往き大來る、吉にして亨るとは、すなはちこれ天地交はりて萬物通ずるなり。上下交はりてその志同じきなり。

    (現代語訳)

    「泰は小往き大來る、吉にして亨る」。

    彖に「泰は小往き大來る、吉にして亨る」とあるのは、すなわち天と地が交わりあって、万物がともに通じ合っていること、王と臣下が交わりあって心を一つにしているということである

    ※彖(たん。易の卦の意味について論じたもの。周の文王の作という)

    ※亨(とおる(とほる)。神が受け入れる。物事が順調にいく。支障なく行われる。)

     

    に由来し、天と地、つまり皇帝と臣下の間の風通しが良く、心が一つであることを意味する言葉である。

     そして景運とは『晋書』巻九十九 桓玄伝や『周書』巻十六 独孤信伝などに見える言葉で、良き時代にめぐり合うことを意味する。

     すなわち「泰交景運」とは皇帝と臣下が心を一つにして良き時代を実現しようという志を表したものである。

     次に、玉座の左右の対聯は、上聯(玉座に向かって右)に


    神聖相承恍睹開國宏猷一心一德
    神聖相い承けて恍(あたか)も睹(み)る、國を開きたる宏猷の一心一德なるを、

    (現代語訳)

    神聖なる皇帝の位を代々受け継いできたが、今、わが清が成立したとき、遠大な志の下(皇帝と臣下が)みな心を一つにしていたのが目に見えるようだ

    下聯(向かって左)には


    子孫是守長懐紹庭永祚卜世卜年
    子孫是れ守りて長(とこ)しえに懐(おも)う、庭を紹(つ)ぎ永祚なる卜世卜年を

    (現代語訳)

    我々子孫はこの王朝を守り、国土を受け継ぎ永遠に、幸福に王朝が続いていくことを願っている

    と記されている。

     すなわちこの対聯も皇帝と臣下が心を一つにして(一心一德)国を開いたこと、そして子孫たる乾隆帝とその臣下がこの国を永遠に受け継いでいくという決意を示したものである。

     

     このように、大政殿の扁額と対聯が皇帝と臣下の団結、そして忠誠を呼びかけた内容である点は、満洲人の精神を知る上で非常に注目に値する。この「心を一つに」「一心一德」という言葉は清初から満洲族の団結と忠誠を呼びかけるスローガンとしてしばしば用いられてきたもので、入関前の満文史料にも「emu mujilen/mujilen emu」(一心、心を一つに)として頻出している。

     康熙、雍正、乾隆帝も常日頃から口をすっぱくして臣下に団結と忠誠を呼びかけており、詔勅や聖訓には「一心一徳」や「一体」、「一家」といった文字がことあるごとにしつこく登場する。史料を読んでいるとき、あまりの多さに「二言目には……」といった感じすら受ける。


     そしてこの一心、emu mujilenという言葉は満洲の模範たる「正しい心」という意味合いをも含んでいたらしい(谷井俊仁「一心一徳考―清朝における政治的正当性の論理―」)。

     乾隆帝は、大政殿に集まった君臣が政治や軍事について親しく語り合い、一致団結して清朝を築き上げてきた様子を思い起こし、満洲族がもう一度初心に立ち返ることを願いながらこの扁額と対聯を書いたのであろう。

     

    三、十王亭(八旗亭)

     大政殿と十王亭

    大政殿と十王亭  南側から撮影(2004年4月撮影)

    大政殿、十王亭配置図

    大政殿、十王亭配置図(google earth 衛星写真により作成 2008年4月)

     

     十王亭は八旗の左翼王と右翼王、八旗の諸ベイレと大臣たちが各旗の事務をとり行う場所で、それゆえ「八旗亭」とも呼ばれている。典礼の際にはベイレや大臣が自分の所属する旗の旗亭の前に整列し、ハンに謁見した。

     建物の配置を見ると、大政殿を頂点に十王亭が八の字形に配置され、北方騎馬民族の幕営、戦陣を思わせる。

     

     入関前の清朝は、清朝史研究の泰斗孟森が連邦制にひっかけて「連旗制」という言葉で表現したように、八旗によって構成されたいわば連合王国で、八旗がすなわち国家であった。大政殿と十王亭からなる東路はハンと八旗各旗のベイレや大臣たちが国家の政治や典礼を行う場所であり、それゆえ建築様式や建築配置は北方騎馬民族の伝統、そして八旗制度に則ったものとなっている。

     八旗は左右翼四旗ずつに分かれており、それぞれ左翼王・右翼王により統率されていた。部族を左右翼に分けて統率するのは、匈奴以来の北方アジア騎馬民族の伝統的な慣習で、南を正面として東側が左翼、西側が右翼とされていた。

     八旗の場合は

      左翼:鑲黄旗・正白旗・鑲白旗・正藍旗

      右翼:正黄旗・正紅旗・鑲紅旗・鑲藍旗

    という構成となっており、現在の瀋陽故宮の十王亭の配列もこの原則に従っている  (※) 

     

    左翼五王亭

    左翼五王亭(奥から手前へ順に、左翼王亭・正黄旗亭・正白旗亭・鑲白旗亭・正藍旗亭)(2005年5月撮影)

    右翼五王亭

    右翼五王亭(奥から手前へ順に、右翼王亭・鑲黄旗亭・正紅旗亭・鑲紅旗亭・鑲藍旗亭)(2005年5月撮影)

     

     

     各旗亭の内部には八旗各旗の旗印(旗纛)や甲冑・武器・文物が展示してある。

     個人的に面白かったのは弓矢で、以前大三島の大山祇神社で見たモンゴル弓(蒙古襲来時のもの)とそっくりだった。

     

    鑲黄旗正黄旗正白旗正紅旗鑲白旗鑲紅旗 正藍旗鑲藍旗弓と矢各種銃砲信牌(老満文:aisin gurun i han i doron)

    各旗亭内部には、八旗各旗の旗や甲冑、武器、文物を展示(2005年5月撮影)

    (フォトアルバムにも写真をUPしてあります)

     

    (※)

       以前(1980~90年代ごろ)の十王亭の配列は

      左翼:左翼王亭・正黄旗亭・正紅旗亭・鑲藍旗亭・鑲白旗亭

      右翼:右翼王亭・鑲黄旗亭・鑲紅旗亭・正藍旗亭・正白旗亭

      という順番に並んでおり、これは乾隆年間の修復記録に基づいたものだという(細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』p27)

     なお、ヌルハチ時代の八旗左右翼の配列は

      左翼:正黄旗・正紅旗・正藍旗・鑲藍旗

      右翼:鑲黄旗・鑲紅旗・正白旗・鑲白旗 

    で、ホンタイジ即位後に現在知られる通常の左右翼配置になったという(白新良「努爾哈赤時期八旗左右翼小考」)。

       以前の十王亭の左右翼配置はこのヌルハチ時代のものに近いが、鑲白旗が左翼に、正藍旗が右翼に属している点が異なっている。

     
     なお、村田治郎『満洲の史蹟』等多くの文献や現在では、十王亭に通常の左右翼配列を採用している。この問題については現在調査中。

     

    参考文献・サイト(順不同)
    (参考文献)

    杜家驥『八旗與清朝政治論稿』国家清史編纂委員会研究叢刊、人民出版社、2008年

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年

    遼寧省図書館編『盛京風物――遼寧省図書館蔵清代歴史図片集――』国家清史編纂委員会・図録叢刊、中国人民大学出版社、2007年

    内藤虎次郎 『満洲写真帖(増補版)』小林写真製版所出版部、1935年

    細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年

    谷井俊仁「一心一徳考――清朝における政治的正当性の論理――」『東洋史研究』63-4、2005年

    白新良「努爾哈赤時期八旗左右翼小考」『歴史檔案』1981年第4期→白新良『清史考辨』人民出版社、2006年

     

    (サイト)

    占いの玉手箱(易経の解説)(2007年5月5日アクセス)

    http://www.e-tamatebako.com/eki/eki1.htm

    中央研究院(台北)漢籍電子文献、二十五史(2008年5月24日アクセス)

    http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=2012069934&rid=-2



    April 24

    瀋陽故宮について(google maps衛星写真)

    瀋陽故宮衛星写真

    瀋陽故宮衛星写真

    大きな地図で見る (google maps)

     

    主な宮殿建築の配置( 上のgoogle衛星写真を元に作成、2008年4月)

     

     瀋陽故宮(しんようこきゅう Shenyang gugong)は、中国遼寧省瀋陽市に位置する清代の宮殿。清朝の創始者ヌルハチ(努爾哈赤)と二代皇帝ホンタイジ(皇太極)が住んだ宮殿で、北京の故宮(紫禁城)と並び、中国で最も保存状態のよい宮殿建築である。建築様式は満洲、モンゴル、漢三民族の様式が融合している。

     瀋陽故宮は、清(後金)天命十年(1625)に造営が開始され、崇德元年(1636)に基本的に完成、清代には『盛京宮闕』と呼ばれた。第三代順治帝が北京に都を移した後は陪都(副都)の離宮として整備が行われ、乾隆年間の大規模な増改築を経て、現在に至っている。清滅亡後の1929年「東三省博物館」として一般開放。戦後は瀋陽故宮博物院として一般公開されている。

     2004年7月、ユネスコの世界遺産(北京、瀋陽の明清皇宮)に登録された。 

     

     敷地面積は約6万平方メートルで、北京の故宮の約16分の1、合計で114座の建築を持ち、建築の配置、様式および造営年代から主に東路、中路、西路の3地区に分けられる。

     東路は大政殿、十王亭からなる地区で、おおむねヌルハチ時代に造営され、建築様式は清代初期の八旗制度を色濃く反映している。大政殿は移動式テント(ゲル)を模した様式でハンが鎮座し、十王亭は八旗の左翼王と右翼王、そして八旗各旗の王たちが事務を行う場所である。建物の配置を見ると、大政殿を頂点に十王亭がハの字形に配置され、北方騎馬民族の幕営、戦陣を思わせる。

     

     中路は大清門(故宮の正門)、崇政殿、鳳凰楼、清寧宮という瀋陽故宮の中軸線を中心とした区画である。

     この区画は主にホンタイジ時代に造営されたものであり、その後、乾隆十一年~十三年(1746~48)年の大規模な増改築により、内廷(鳳凰楼、清寧宮)の東西に位置する建築群である東所、西所と崇政殿北の師善斎、日華楼、協中斎、霞綺楼、崇政殿南の東七間楼、西七間楼、飛龍閣、翔鳳閣などが新たに建てられ、さらに大清門、崇政殿、鳳凰楼など既存の建築にも改修が加えられ、現在に至っている。 

     中路の建築の様式、配置を見ると、満洲族と漢族の様式が混在した、いわば「満漢折衷」というべきものになっている。

     まず、建築様式を見ると、外見としては硬山式の屋根など中国北方地区(東北、山西)の様式が反映されているが、清寧宮を初めとする後宮の建築物は、内部に「万字炕」と呼ばれるコの字型のオンドルを設け、特に清寧宮では西側が上座とされるなど、満洲族の住居様式を色濃く反映している。また、大清門、崇政殿、清寧宮の正面軒下の四角柱や斗拱にはチベット仏教寺院の影響も見られる。そして、清寧宮前に立てられたシャーマニズム祭祀用の柱「神杆(索倫杆)」も注目に値する。

     次に、建築配置の面では、漢族の宮殿建築の「前朝後寝」という原則にのっとり、政治を行う外朝の崇政殿が南側、生活場所である内廷(後宮)が北側に配置されているが、瀋陽故宮独特の特色としては、鳳凰楼と清寧宮を主体とする内廷が防御や警護のため約3.8メートルの高台に築かれ、外朝の正殿たる崇政殿や東路の大政殿よりも高い位置にあるという点が挙げられる。

     これは明代女真族(後の満洲族)の山城の様式を踏襲したものとされ、紫禁城の太和殿のように、「天子」すなわち天の代理者たる皇帝が政治を行う外朝の正殿を宮殿の最も高い位置に持ってくる漢族の宮殿建築とは大きく異なっている。

     

     なお、大清門東横の太廟は、乾隆四十六年(1781)に撫近門(大東門)外から移築されたもので、中路の建築群からは独立している。

     ここには元々明代から続く「三官廟」と呼ばれる道観があり、ヌルハチやホンタイジによる宮殿造営後も撤去されることなく大清門横に立っており、歴代皇帝による尊崇を受けていた。康熙八年(1669)頃に描かれた盛京(瀋陽)の地図『盛京城闕圖』でも大清門の横に廟が描かれている。

     その後、乾隆四十六年の太廟の移築に伴い、元の三官廟は徳盛門(大南門)内に移転している。 

     

    『盛京城闕圖』(康熙八年(1669)頃 中国第一歴史档案館蔵)
    以下のページで閲覧可能。

    振兴东北网 东北特色 文化 《尋找失落的“沈陽九門”》2004年12月6日

    http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/chinaneast.xinhuanet.com/2004-12/06/content_3337933.htm

    この地図では中央やや左に崇政殿、鳳凰楼が見える。中路の建築は現在よりかなり少なく、西路はまだ造営されていない。

     

     西路は乾隆四十八年(1783)の乾隆帝の第四次東巡にあわせ、乾隆四十六年~四十八年(1781~83)の三年間にわたって新たに造営された区画で、皇帝、皇族の盛京滞在時の娯楽と休息のための場所である。おもな建築は、馬やかごを停めておく轎馬場、乾隆帝が東巡の際に観劇を楽しんだ戯台、四庫全書を収蔵した文溯閣、皇帝の休息の間である仰熙斎で、寧波の天一閣を模した文溯閣に代表されるように漢族の建築様式が色濃く反映されている。

     

    ・・・・・・・・・

    参考文献・サイト(順不同)

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

    細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990――』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年

    松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選11 白帝社、1995年

     

    振兴东北网  东北特色 文化 《尋找失落的“沈陽九門”》2004年12月6日(2008年5月20日アクセス)

    http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/chinaneast.xinhuanet.com/2004-12/06/content_3337933.htm











    May 12

    下馬碑

    瀋陽故宮下馬碑

     故宮西南角の下馬碑(2008年9月撮影)
     
     
     
     正面から(2005年5月撮影)
     
     
    下馬碑とは文字通り「ここからは下馬せよ」と命じる碑であり、中国の宮殿や陵墓の入り口によく見られる。
     
    瀋陽故宮の下馬碑は武功坊と文徳坊の外側、故宮の東南角と西南角に立てられている。
    元々の由来は太宗ホンタイジの崇徳年間(1636~43)に、ここに木牌を立てて、下馬を命じたものである。
    馬に乗ってやってきた諸王や官僚たちはここで馬を下りて、大清門をくぐり参内しなければならなかった。
     
    その後、派手好きの乾隆帝により、乾隆四十七年(1783)の東巡(東北巡幸)時に石碑に改められた。
     
    石碑には、左から順に満洲語・モンゴル語・チベット語・ウイグル語・漢語が刻まれている。
    漢語では
     
    諸王以下官員人等至此下馬
     
    諸王以下官員人ら此に至らば下馬せよ
     
     満洲語では
     
    geren wang  ci  fusihūn hafasa  ubade  morin  ci ebu
     
    諸     王    より    下等の      官等は   ここで    馬       から 下りよ
     
     
    という内容である。
     
    昭陵(北陵)、福陵(東陵)など、その他の場所にある下馬碑もほぼ同内容である。
    西南角の碑はすでに失われており(時期不明)、現在は復元された石碑が建てられている。
    東南角の碑は1999年に車が衝突して損壊、その後修復されている。
     
    なお、このとき車の持ち主(運転者は即死)が瀋陽故宮博物院から100万元という多額の賠償を請求されている。
     
     
    参考文献

    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年

    羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005

     






    August 13

    文溯閣

    文溯閣(満文:šu songkon asari)
     
     
    文溯閣は、乾隆年間に増築された瀋陽故宮西側に位置し、『四庫全書』が収められていた。
    建物は乾隆四十七年(1782)に完成し、三階建て。様式は寧波の天一閣を模したものである。
    文溯閣(2004年4月撮影)
     
    文溯閣
    文溯閣 殿額
    左 満文:šu songkon asari 右 漢文:文溯閣
    (2008年9月撮影)
     
    外観は他の宮殿と大きくことなり、派手な瑠璃瓦を使用せず、柱にも朱色を塗らず梁には書籍などの装飾画を描いており、いかにも書庫らしい落ち着いた雰囲気となっている。 
    一階中央部には皇帝の読書のために机や椅子が置かれ、その採光のために一、二階中央部は吹き抜けとなっており、二階の南側には大きな窓が設けられている。
    戦前の文溯閣内部、一階と二階(『満洲の史蹟』写真p32)
    (現在内部は非公開)
     
    文溯閣一階(2004年8月撮影)
     (このときは特別公開期間で、入り口から中をのぞくことが出来ました)
     
    内部は一階に『四庫全書』経部と『古今図書集成』、二階に『四庫全書』史部、三階に『四庫全書』子部、集部が収められていた。
    書架配置図(一、二階の吹き抜け、南側が空けられているところに注意)
    (『満洲の史蹟』p229)
     
    乾隆四十七年に『四庫全書』の第一部(北京、文淵閣本)が完成したあと、翌四十八年春に第二部の書写が完了。この「文溯閣本」は四十八年秋の皇帝東巡(東北行幸)に間に合わせるため、書写が終わった分から何組かに分けて盛京(瀋陽)へと運ばれた。
     
     
    文溯閣四庫全書の流転
     
    文溯閣の『四庫全書』は、清末以後、度重なる流転に見舞われることになる。
    1915年、北洋政府により、文溯閣『四庫全書』と『古今図書集成』は北京故宮の「古物陳列所」(故宮博物院の前身)へと運ばれた。
    空き家となった文溯閣はその後軍閥の兵舎として使用された(『満洲の史蹟』)
     
    1925年、奉天省(現遼寧)教育会会長馮広民らは北平(北京)で「清室善後会議」に参加し、「古物陳列所」の保和殿で文溯閣本『四庫全書』を目撃。
    おりしも、奉天軍閥が第二次奉直戦争で勝利。彼らは北平が奉天軍閥の支配下に入った機会を利用して、同年8月『四庫全書』と『古今図書集成』を奉天(瀋陽)へ持ち帰ることに成功した。同年、文溯閣四庫全書保管委員会が発足、翌26年には文溯閣の修復が行われた。
     
    なお、この間に紛失していた本が七十二巻あったので、翌26年から一年間かけて北京の文淵閣本から書写して補っている。
    文溯閣東側、碑亭の右側の塀には『文溯閣四庫全書運復記』として、この経過が記されている。
    碑亭。乾隆帝の「御製文溯閣記」を刻んだ碑が立っている。
    その右側の塀に「文溯閣四庫全書運復記」がはめ込まれている(2004年4月撮影)
     
    満洲国成立後、1937年に『四庫全書』と『古今図書集成』は文溯閣西南に建てられた鉄筋コンクリートの書庫に移され、文溯閣は以後空き家となった。
     
    1948年、国民党政府は文溯閣の『四庫全書』を北平に輸送。
    翌年4月、北平が共産党支配下に入ると、『四庫全書』は再び瀋陽(奉天から改名)に戻った。
     
    1950年、朝鮮戦争が勃発し、戦場が中朝国境付近に及ぶと『四庫全書』は安全のため黒龍江省訥河(のち北安県)に避難、54年の休戦後再び瀋陽に戻った。
    だが、1965年8月中国とソ連の間で軍事的緊張が高まり、中央政府と遼寧省、瀋陽市は『四庫全書』の避難を決定。翌66年文溯閣『四庫全書』は、甘粛省に移送され、ひそかに保管された。そして現在は甘粛省図書館が建てた文溯閣四庫全書蔵書楼に収蔵されている。
     
    80年代以降遼寧省は甘粛省に対し『四庫全書』の返還を要求しつづけているが、現在のところ実現していない。
     
    参考文献・サイト(順不同)
    李理編著『瀋陽故宮珍宝』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年
    佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年
    内藤湖南「文溯閣の四庫全書」
    (青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1733_21578.html  2006年8月13日アクセス
    底本『内藤湖南全集』十二、筑摩書房、1970年、初出『大阪朝日新聞』明治四十五年(1912)年7月28日付 )
    村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年
     
    甘肃省图书馆 《四库全书》藏书楼概况 (2006年8月13日アクセス)
     
     









    July 22

    清寧宮の煙突

     清寧宮は、瀋陽故宮の中央の高台に位置する皇帝、皇后の居所(後宮)で、満洲族伝統のシャーマニズムの祭祀もここで行われた。

     

     今回とりあげるのは、清寧宮裏の煙突(下の写真)についての伝説。

    2004.8.26 瀋陽故宮 021

    2004年8月撮影 

     この煙突は上に行くほど細くなっていて、段々になっている。そしてこの段が十二段あることから、これは清朝が十二代で終わることを予言していたとの伝説があるらしい。

     しかも煙突最上段12段目のレンガがちょうど三層しか重ねられていないのは、在位わずか三年で退位した宣統帝溥儀を表しているという伝説も聞いたことがあります。

     2004.8.26 瀋陽故宮 022

    最上段 2004年8月撮影 

     

      まあ、単なる偶然でしょうけど。。。。。。

     「一統天下(天下統一)」の「統」と烟筒(煙突)の「筒」を引っ掛けて、縁起をかついだという話もあるんですけどね。