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November 06 八旗吉祥物八旗兵携帯ストラップ(鑲白旗) 11月2日 故宮養心殿前売店にて購入 15元 故宮で八旗マスコットを発見! その名も「八旗娃娃」(八旗人形)。ロゴをよく見ると右下に英語で“EIGHT BANNERS”と書いてある。「八旗娃娃」のキャラクターは八旗にあわせてちゃんと八種類あり、店内には「八旗娃娃」の携帯ストラップ、起き上がりこぼし、ペンケース、鉛筆、ノート、冷蔵庫用マグネットなどなど、いろんな商品が置いてあった。 大学院時代、修士論文で八旗の火器営(鉄砲隊・砲兵隊)を扱ったことがあるので、火縄銃を持っている鑲白旗の携帯ストラップを購入。 しかしまあ、まさか八旗がこういうカワイイ系のマスコットになる日が来るとは思わなかった……
メーカーはこちら 北京尚潮创意纪念品开发有限公司 http://shop36830724.taobao.com/ October 29 トゥリシェンはマンモスの肉を食べたか?
さて、この間ロシア関係のことを調べたついでに、満洲旗人トゥリシェン Tulišen(図理琛)のロシア旅行記『異域録』を読んだ。 トゥリシェンは康熙五十一年(1712)ヴォルガ河流域で遊牧するトルグート部(現在のカルムイク共和国)への使節団に参加。当時は最短ルートである天山北路(ジュンガリア・現新疆ウイグル自治区北部)が清と敵対するジューンガル部に領有されていたため、迂回ルートのシベリアを経由して、五十三年(1714)にトルグート部のアユキ=ハーンと会見し、五十四年に北京に帰還している。彼は通過したシベリア各地の地理・風俗・政治等につき満洲語・漢語による詳細な報告を行い、雍正元年(1723)に『異域録』として出版、18世紀シベリアの貴重な記録となっている。 そこで面白い記述を発見。場所はエニセイスク。以下は満文本からの日本語訳。
マムントワはロシア語でマンモスを意味するマモント Мамонт。当時のシベリアではマンモスは太古の生物ではなく、地底で生活する巨大な動物で、地上に出ると死ぬと信じられていた。これはシベリアで時折発見されるマンモスの化石や生前の姿を保ったままの氷漬けマンモスを見た現地人が、マンモスを地中に生きる現生動物と信じたことによるものらしい。マンモス・マモントという名称もシベリア諸民族の言葉mamut(地下に生活する者)が語源。 なお、乾隆『大清一統志』巻四百二十三俄羅斯(ロシア)の条でも、シベリアのヤクートに生息する現生動物として「麻門橐漥(マモントワ)」が紹介されている。内容は『異域録』の引用箇所とほぼ同じ。
「骨は白くてすべすべし、柔らかで象牙に似ている。……ロシア人はこの骨を手に入れると、碗、皿、くしなどを作って使っている」とあるが、シベリアでは実際にマンモスの化石が工芸品の製造に用いられ、最近では象牙の代用品として輸出もされているという。「いつも河岸の土中から発見される」についても、マンモスの化石は実際に河岸で発見されることが多い。
さて、気になる記述がこれ。
おお、当時のシベリア人とトゥリシェンはマンモスの肉を食べたのか?『はじめ人間ギャートルズ』!と思って、訳本の注を見てみると
とある。『神異経』の該当箇所に当たってみると、
とあり、トゥリシェンはシベリアでマンモスの話を聞き、『神異経』の記述にある「磎鼠」とみなし、肉に関する記述をそのまま引き写したらしい。なお、『神異経』の「磎鼠」については、実際にシベリアのマンモスの化石や氷漬けマンモスの話が中国に伝わったものとする見方がある(南方熊楠「マンモスに関する旧説」)。 したがって、『異域録』の記述からだけではトゥリシェンやシベリア人がマンモス肉を食べたかについてはよくわからないが、可能性はあるかもしれない。 氷漬けマンモスの場合腐敗はしていないだろうから、『神異経』の通りに乾肉にして食べたら問題ないかもしれない(?!)
と書いて記事をアップしようと思ったら、まさかこんなものが発売されてるとは!最近日本を開けてたんで知りませんでした。 東ハト「マンモスの肉!?・シベリアの塩味」・「マンモスの肉!?・焼肉のタレ味」 http://tohato.jp/news/news.php?data_number=536
東ハトのスナックにも「肉の性質は寒で、これを食べると、高熱や内臓が焼けついて苦しいのを抑えることができる」効果や熱を下げる効果があるんでしょうか? …… 参考文献・サイト 『異域録―清朝使節のロシア旅行報告―』トゥリシェン 今西春秋訳注 羽田明編訳 平凡社東洋文庫445 平凡社 1985 『神異経』(四庫全書本)『欽定四庫全書』上海古籍出版社 1987 『大清一統志』(四庫全書本)『欽定四庫全書』上海古籍出版社 1987 南方熊楠「マンモスに関する旧説」(電子テキスト:鬼火/やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇 http://homepage2.nifty.com/onibi/man.html 2009.10.15アクセス)(底本「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」平凡社 1985) October 12 ある満洲貴族のロシア観ひまな時に清代の筆記(随筆)『嘯亭雑録』をめくっていたら、ロシアについての項目が見つかった。著者の礼親王昭槤(しょうれん)(1776~1829)は、ヌルハチの次子礼親王ダイシャン(代善)の末裔で文才があった。 この項目からは、18世紀後半から19世紀にかけての満洲人のロシア観がよくわかる。 ちなみに中国語ではロシアは俄羅斯(オロス)と呼ばれる。
まず、ハルハとはモンゴル高原で最大勢力を誇る部族であり、ウリャスタイとはモンゴル西部の一都市で、清代にはモンゴル高原とアルタイ山脈方面を管轄するウリャスタイ将軍(烏里雅蘇台将軍)が置かれ、当時はモンゴル高原を指す地理的名称としても使われていた。 次に、東では黒龍江、西ではアンディジャン(安集延)・コーカンド(敖罕)に接しているとしている。アンディジャン・コーカンドは現在の中央アジアのウズベキスタン東部で、当時はコーカンド=ハーン国の支配下にあった。コーカンド=ハーン国は現ウズベキスタン領のコーカンドを都とし、現在のウズベク・キルギス・タジクとカザフの一部を支配するトルキスタン南部の強国であった。清朝のジューンガル部・東トルキスタン征服(1755~1759)により、清朝と直接接触することになったコーカンド=ハーン国は清朝に朝貢、以後清朝・ロシア・カザフ・インドの十字路上に位置する地の利を生かし、中継貿易による繁栄を迎えることとなった。 清にとって、アンディジャン・コーカンドは清朝の勢力圏の最西端という認識だったようで、以後紆余曲折を経ながら、19世紀中ごろまで朝貢・通商関係が続いた。 つまり、ロシアが、北のモンゴル、東の黒龍江、そして西のアンディジャン・コーカンドと、清朝の勢力圏の北・東・西の三方に接していることを例にして、ロシアの国土の広大さを強調している。
「肌が色黒で目が落ちくぼんでおり」だが、原文は「黑皙窅目」で、やや色黒の小麦色の肌と目がくぼんだ彫りの深い顔を指すようだ。清朝と境を接するシベリアや中央アジア方面のロシア人は現地人と通婚・混血しており、肌の色などの形質が現地人に近いものもいることからきた記述だろうか。 「衣服・食物・言語・文字はみな西洋に近く、モンゴルの部族の習俗とはかけ離れている」とあるが、興味深いのはあくまで「西洋に近い」のであって、「西洋」ではないとみなしていること。本文中では「洋」・「西洋」はロシアとは異なるものとして用いられている。これは、後述のモンゴル的歴史観と関連している。 「文官はみな西洋人を任ずる(其文官皆洋中人為之)」というのは、当時ロシア宮廷に多く仕えていたドイツ系貴族を指していると思われる。 「チャガン=ハーン(察罕汗)」とは、モンゴル語で「白いハーン」を意味する言葉で、ロシア皇帝(ツァーリ)を指し、19世紀以前の清朝でもその呼び名をそのまま使っていた。これは、ロシア帝国の源流であるモスクワ大公国が元来ジョチ=ウルス(キプチャク=ハーン国)の属国であり、モンゴル人からはジョチ=ウルスの継承国家とみなされていたことによる。本文でも、モンゴル貴族であるサガン=セチェン著の『蒙古源流』を引用する形で、ロシアの始祖はジョチであるとしている。 こうした認識は当時広く共有されていたようで、道光十二年(1832)に北京を訪れた朝鮮使節の金景善も、俄羅斯館(ロシア人滞在施設)を訪れたのち、ロシア人のことを「蒙古の別種なり」と記している。「別種」とは同じ起源から分化した民族・種族をいう(『燕轅直指』巻三「鄂羅斯館記」、蔡鴻生『俄羅斯館紀事』所収)。 しかも、そもそもオロス(俄羅斯)という名称自体、ロシア語の「Русь ルーシ(ロシアの古称)」や「Россия ラシーヤ(ロシア)」が、モンゴル語の「オロス Oros」に変化し、その後満洲語、漢語に入ったものだ。 当時の満洲人・清朝人のロシア理解は、やはりモンゴルの影響が濃かったようだ。 「女が国主の位を伝えてすでに七代となる。男が生まれれば異姓の人とみなし、女が生まれて初めて国の跡継ぎとする」というのは、18世紀のロシアに女帝が多かったことからくる誤解だろう。確かに、エカチェリーナ1世以降女帝が非常に短い間隔で頻繁に即位しているので、ユーラシア大陸の東の果てにいた昭槤がそうした誤解をしてしまうのも無理はない。
全体的に見て事実と誤解が入り混じっている感じだが、当時の満洲人のロシア理解を知ることができ面白い 。 …… (参考文献) 『嘯亭雑録』清代史料筆記 中華書局 1980→1997再版 蔡鴻生『俄羅斯館紀事(増訂本)』中外交流歴史文叢 中華書局 2006佐口透『ロシアとアジア草原』ユーラシア文化史叢書 吉川弘文館 1966 竺沙雅章監修・間野英二編『アジアの歴史と文化8 中央アジア史』同朋舎発行 角川書店発売 1999 宮脇淳子『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡―』講談社選書メチエ41 1995 May 20 西遷節17日(日)、遼寧師範大学で行われたシベ(錫伯)族の西遷節に参加しました。 西遷節とは、乾隆二十九年(1764)に盛京(現在の瀋陽)地域に居住していたシベ族を徴募し、守備隊として新疆のイリ(伊犁、グルジャ)に移住させたことを記念する行事です。シベ族は「携眷駐防(けいけんちゅうぼう)」、すなわち家族を引き連れて移住し、半永久的に辺境防衛に当たるという任務を課せられ、盛京からモンゴルを経由し、二年の月日を経て、新疆西部のイリ川流域に到着。以来今日まで、イリ川流域に居住してきました。 西遷節では遼寧省をはじめとする東北地方のシベ族と乾隆年間にイリに派遣されたシベ族の子孫が一堂に会し、西遷ルートを探訪した関蘊科氏による講演、西遷ルートの現在の様子を撮影した写真、新疆のシベ族の踊り、宴会等が行われました。 関蘊科氏の講演では、来賓の満洲族の方に「私たち満洲族の皇帝によって派遣されたんですけど、いつ故郷に帰してくれるんですか?」と冗談を飛ばして、会場が大爆笑するというシーンもありました。 西遷ルートを撮影した写真 空きスペースに寄せ書き 拍摄西迁路线的照片 在空处签名 (写真に記帳された名前、私のもあります。みなさんのご厚意に感謝!) (签名,也有我的名字,非常感谢锡伯族朋友们的厚意!) (点击就能放大、クリックすると拡大します) このシートだけ私がいただいて帰って来たんで、会場にいなかった新疆のシベ族の方々のためブログにアップしました 这张照片幕人们送给我,上载博客,以让不在场的新疆锡伯族朋友们看看
みなさん見ず知らずの私を大歓迎していただきまして、本当にありがとうございました。 あと、宴会で白酒を飲んで、かなり酔っ払いました(雰囲気で酔ったかも・・・・・・) 谢谢大家的欢迎! Labdu baniha ! 宴会の舞踊 祝辞上の写真の満洲文字の内容は以下の通りです。 aga amala buconggo nioron encushūn nemeyen hojo kai 雨の後の虹はひときわたおやかで美しいものだ 意味は中国語とほぼ同じです。 (buconggo nioron=虹(彩虹)、encushūn=ひときわ、格別、nemeyen=たおやか、温和、柔順、hojo=美しい、みめよい、kai=・・・・・・である、・・・・・・だなあ) (満文はここでは縦書き、右>左の順で書かれている。本来は縦書きで左>右と書き進む) November 06 捨て去られた神話満洲族の祖先はかつて金朝を築いた女真族であり、明代末期には金朝にちなんだ国号を持つ「後金(金)」、のちの清朝を建国している。なお「後金」という国号は後世の人間が金朝と区別するために名付けた呼称とみなされる場合が多いが、これは誤解で、同時代史料にも「アマガ=アイシン=グルン(後金国)」という名で登場している。 ヌルハチ、ホンタイジも臣下への詔勅や訓示でよく金朝の故事を引用したり、国家事業として『金史』の満洲語訳を行うなど、金を自らのルーツとして位置づけていた。
さて、石橋崇雄氏は、ヌルハチのマンジュ国(建州女真)統一以前の動向を伝える後金(後の清朝)時代の史料『先ゲンギェン=ハン賢行典礼』(中国第一歴史档案館蔵、以下『賢行典礼』と略す)を発見、そこにはこれまで知られてきたヌルハチ一代記『満洲実録』や『太祖実録』とは異なる内容が多く含まれていることを紹介している。なお『賢行典礼』は本文で「ジュシェン(女真)」という呼称を使用しているが、太宗ホンタイジの天聡九年(1635)十月にジュシェン=女真という呼称が禁止され、「マンジュ(満洲)」に改称されているので、編纂年代は天聡九年十月以前と考えられる。
今回はそのなかでも特に目立った相違点、愛新覚羅(アイシン=ギョロ) 氏の始祖神話について紹介したいと思う。 まず、『満洲実録』、『太祖実録』での始祖神話を簡単に紹介する。
次に『賢行典礼』での始祖神話の冒頭部分をかいつまんで紹介する。
このように『満洲実録』、『太祖実録』とほぼ同内容。だが『満洲実録』、『太祖実録』ではブクリ=ヨンションが降臨した場所は単に「国」、彼をベイレに推戴した人々はただ単に「人々」、「国人」としか記されていないのに対し、『賢行典礼』でははっきりと「ジュシェン(女真)国」、「ジュシェン人」と記すことによって女真族を民族のルーツとして明確にアピールし、しかもドゥドゥ=メンテムの事跡の次に以下のような註(石橋崇雄氏訳)も付加されている。
すなわち、愛新覚羅氏発祥の地の「オモホイ野」が金の都であった会寧府(黒龍江省ハルビン市阿城)と同じ白山(長白山)の東方にあり、金の皇帝とヌルハチは姓は違うが起源は同じだとし、さらにヌルハチは「古の聖人」つまり金の皇帝たちに勝るとも劣らない君主であると強調している。 これらは『満洲実録』や『太祖実録』といった後世の史料には見られない記述で、愛新覚羅一族のマンジュ(満洲)国と後金のヌルハチを、かつて女真族の統一国家を築いた栄光ある祖先、金の完顔阿骨打(ワンヤン=アグダ)に直結させようとする意図がうかがえる。 このように後金は王朝の始祖神話においても女真族と金朝を自らのルーツとして位置づけていたのだった。これは女真族の統合と団結を図ろうとしたものだろう。
だが、ホンタイジと後金政権が女真族の民族国家から満洲・モンゴル・漢の諸民族を包摂した多民族国家への脱皮を図る上で「後金」はあまり好ましい名称とはいえない。特にかつて金と戦った岳飛を英雄として崇拝するなど、女真族や金への根強い敵愾心とネガティブイメージを持つ漢族を統治するにあたって「女真」という民族名や「後金」という国号はマイナスでしかなかった。
そこで、天聡九年(1635)十月にホンタイジの命によりジュシェン(女真)という民族呼称が「マンジュ(満洲)」に改称され、翌崇徳元年(1636)に国号が「大清」、満洲語で「ダイチン=グルン」へと変更されるなど、国家が金を自らのルーツとして位置づける風潮は次第に廃れていった。 皇帝たちも詔勅で金の故事を引くことが少なくなったし、清朝によって編纂された公式の歴史史料も、清=満洲族と金=女真族とのつながりを示す記述を注意深く取り除くようになった。 その一番よい例が先ほど引用した愛新覚羅一族の始祖神話で、乾隆年間に現在の形となった『満洲実録』や『太祖実録』冒頭に記された始祖神話からは、先ほど引用した『賢行典礼』の註の内容がバッサリと削除されている。 さらに、『賢行典礼』、『旧満洲檔』、『満文老檔』(乾隆年間に作成された『旧満洲檔』の写し)など後金時代の史料に登場する「アマガ=アイシン=グルン(後金国)」あるいは「アイシン(金)」という国号、および「ジュシェン(女真)」という民族名は、後世の官撰史書では全て「マンジュ(満洲)」に修正され、清朝と金、女真とのつながりを示す記述は完全に消去されてしまった。
また、これは余談だが、入関後には清朝自らかつて金の敵だった岳飛の廟を保護したり、満洲旗人の間でさえ『説岳全伝』が流行するなど、ジュシェン=女真アイデンティティを表に出さなくなった。筆者も2004年、2006年に杭州の岳飛廟を見学した際、清朝の地方官による岳飛廟や秦檜像修復の顛末を記した石碑を見たことがある
後金すなわち女真族は、ジュシェン=女真アイデンティティを強調し、金朝の栄光の歴史を利用することによって民族の統一、統合を図ったが、民族の統一、統合がほぼ完成し、モンゴル・漢など諸民族を包摂した多民族国家を支配する課題に直面したとき、自らの栄光の歴史をあえて捨て去ったのだった。 清朝が圧倒的多数派の漢族の大海の中で長期政権を保てた秘訣は、このような情況適応力にあるのだろう。
参考文献(順不同) 『清実録』中華書局 1985~87 満文老檔研究会 訳『満文老檔』財団法人東洋文庫 1955~63 今西春秋 訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房 1992 石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174 講談社 2000 常林、白鶴群『北京西山健鋭営』学苑出版社(北京) 2006 神田信夫「満洲(Manju)国号考」(『山本博士還暦記念東洋史論叢』山川出版社 1972 → 神田信夫『清朝史論考』山川出版社 2005、pp.22~pp.33) 石橋崇雄「無圏点満洲文檔案『先ゲンギェン=ハン賢行典礼・全十七条』」(『国士館史学』8号 2000、pp.96~pp.48) 井黒忍「満訳正史の基礎的検討―『満文金史(aisin gurun i suduri bithe)』の事例をもとに―」(『満族史研究』第3号 2004、pp.112~pp.130) August 28 白い八旗兵―八旗俄羅斯佐領―5五、同化――その後のロシア人たち―― さて、最後にその後の彼らについて語っておきたい。 乾隆年間以後、彼らは次第に自らの習慣や言語を忘れ、他の満洲旗人たちと同様に漢族へと同化していった。道光二十九年(1849)北京を訪問し、俄羅斯佐領のロシア人たちと面会したロシア使節コワレフスキーの回想によれば、彼らの服飾、言語や容貌はすでに本国のロシア人とは全く違ったものになっていたという(1)。 そして俄羅斯文館も衰退の一途をたどった。『明清史料』 (2) 庚編 第八本所収の道光四年(1824)十月十六日付の「失名奏摺附片」には、
とあり、乾隆二十九年(1764)以降、数十年間にもわたり新たなロシア人教師の任用がなく、俄羅斯文館所蔵のロシア語資料と現実のロシア語との乖離が激しくなり、翻訳事務に支障をきたすようになったので、北京に滞在するロシア人留学生から教師を任用するとの上奏が記されている。 最終的に俄羅斯文館は、同治元年(1862)に、西洋諸国との外交交渉の必要から設立された中国初の近代的外国語学校「京師同文館」に吸収合併される形でその役割を終えたのである。 そして、この時点で俄羅斯佐領の歴史的役割も終わったといえよう。
以下、劉小萌氏の研究により、清末俄羅斯旗人とロシア伝道団との関係、彼らの状況について大まかに述べていきたい。 俄羅斯旗人の間ではこのころまでにロシア正教の習慣は徐々に忘れ去られてゆき、結婚や葬礼も中国式のものへと変わっていた。 姓名も次第にロシア風の姓を漢姓(中国風の姓)に改めていった。
のように、ロシア語の第一音節と似た発音の漢字を選んでいる(3)。 しかし、清末咸豊八年(1858)に天津条約が締結され、列強各国のキリスト教団の自由な布教活動が認められて以降、北京のロシア伝道団も再び活況を取り戻し、俄羅斯佐領の旗人たちも再びロシア正教へと回帰した。なお、清朝とロシアや列強諸国との間に国家間の近代的な外交関係が樹立されたことにより、ロシア伝道団は咸豊十四年(1864)に外交的機能を新設されたロシア公使館に移譲、以後は布教に専念することになった。 光緖十二年(1892)の教徒名簿によれば,北京の東方正教会(ロシア正教)教徒は計459人,そのうち俄羅斯旗人は149人,中国人は310人であった。
光緒二十六年(1900)に義和団の乱が勃発し、北館(聖ニコライ聖堂)は徹底的に破壊されたが、乱の終息後、ロシア軍の報復により破壊された隣の履親王府跡地を初めとする付近の土地を購入し、敷地面積を大幅に拡張して再建された(図一・図二)(5)。 このころ北京のロシア正教教徒はすでに3000~3500人にものぼり、後には北京を起点として中国各地で積極的に布教活動を展開した。民国七年(1918)には北京のロシア正教徒は5587人にも達し、発展のピークを迎えている。
(図一)乾隆年間の北館(聖ニコライ聖堂) 南西に履親王府がある。 『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵) より 「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース 古都北京デジタルマップ 『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧 http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/ (バージョン1.0 / 2008年7月14日公開) (2008年8月3日アクセス)
(図二)清末の聖ニコライ聖堂ー北館ー(地図では「俄国館」) 履親王府の敷地を飲み込み、南西に拡張されている。 『詳細帝京輿圖』光緒三十四年(1908)(『老北京胡同詳細図』中国画報出版社 2006)
清の滅亡後、八旗制度が廃止されると、生活の糧を失った俄羅斯旗人は先祖代々住みなれた東直門を出ていった。 現在彼ら北京のロシア人の末裔の痕跡は完全に消え去ったかのようである。 なお、彼らの最初の聖堂――聖ニコライ聖堂――(北館)と、ロシア伝道団は1955年まで活動を続け、その後、土地、建物と財産をソ連大使館(現ロシア大使館)に譲渡し、その使命を終えたのであった(図三) (7) 。 現在、ロシア大使館内に記念の十字架や高級僧侶の官邸など聖ニコライ聖堂とロシア人たちに関する若干の痕跡が残っている(8) 。
(図三)現代の様子 聖ニコライ聖堂(北館、図二の「俄国館」)の敷地は全てロシア大使館(北東の大きな緑の森がある地区)となっている。マーカーの位置(緯度、経度)は(図一)と同じ
六、俄羅斯佐領の果たした役割―八旗の「仲介者」としての性格― 最後に、俄羅斯佐領の八旗制度における位置づけについて、現在の私の臆説を述べておきたい。 彼ら俄羅斯旗人は、「旗人」とロシア人という二重の特性を持ち、旗人として皇帝の手足となりながら、ロシア語、ロシア人としての特性を生かし、対露交渉や戦争に大きく貢献したのであった。 この点は八旗蒙古や漢軍といった満洲以外の旗人が果たした役割と非常に似通っている。清朝はその成立と拡大の過程の中でモンゴル、漢など異民族を巧みに征服、懐柔しているが、その際に満洲族支配階層とその他異民族とをつなぐ仲介者となったのはモンゴル人、漢人からなる蒙古旗人、漢軍旗人であった。 蒙古旗人は清初、八旗に編入された当初は従来どおり牧地に住み、他のモンゴル部族(ジャサク旗)と接触して暮らし、戦時には連携して戦うことによって清朝のモンゴル支配の媒介となり(10)、入関後には理藩院の官僚や藩部のさまざまな官職に積極的に登用され、モンゴル、チベット政策の実行にあたる(11)など、モンゴル人と「旗人」という二重の特性を活かし、清朝のモンゴル支配の浸透に大きな役割を果たしている。 漢軍旗人もまた「旗人」と漢人という二重の特性から、特に清初においては対漢人政策の立案、実行に大きく貢献している(12)。 楢木野宣氏による清代の重要職官における旗人と科挙官僚の任官状況についての数量的分析によれば、清朝入関後まだ間もない順治年間においては、対漢人政策の実行者たる中国内地の総督・巡撫のポストは漢軍旗人によってほぼ独占されていた。当時の満洲人のほとんどは漢語(中国語)に習熟しておらず、漢人科挙官僚も決して信頼できる存在ではなかったため、八旗に所属する旗人でありながら漢人としての文化的背景を持つ漢軍旗人に漢人政策を任せたのである。しかし、満洲人の漢語習得・漢文化吸収が徐々に進行し、漢人科挙官僚にも清朝皇帝の権威が浸透するにつれ、満洲旗人や漢人科挙官僚の任用が次第に増加し、乾隆年間には漢軍旗人の総督、巡撫への任用は10%を割り込んでいる(13)。 八旗蒙古や八旗漢軍はただ軍事的に清朝・満洲族に貢献したのみならず、そこから多くの忠実な旗人官僚を輩出することにより、満洲族支配階層とモンゴル人社会・漢人社会との仲介者としての役割をも担っていたのである。 清朝における俄羅斯佐領も八旗の持つ「仲介者」としての性格のひとつの現れといえるかもしれない。
終わりに 今後も新しい史料や情報が見つかり次第、加筆・訂正していきたい。 ※なお、2006年9月に綿貫哲郎先生を通じ、劉小萌先生から「清代北京的俄羅斯旗人」 (発表レジュメ及びPowerpoint資料)をいただき、大変役に立ちました。今まで知りたくてもどうしようもなかったことが一目瞭然、本稿の内容を大幅に充実させることができました。
(加筆、訂正) 2005.9.23 柳沢明・澁谷浩一氏の研究に基づき、第四章を加筆訂正。 参考文献・サイト (「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース、古都北京デジタルマップ、2008年7月14日アクセス) (中国語文献)(著者名ピンイン順) (サイト) (追記) July 15 白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――2
二、北京での生活――八つの旗の下で――
(図一)内城東北角(清代乾隆年間)
「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース 古都北京デジタルマップ 『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧 http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/ (バージョン1.0 / 2008年7月14日公開) (2008年8月3日アクセス)
『康煕起居注』(3) 康煕二十四年(1685)乙丑 十月二十二日己酉の條には
とあり、帝自ら、投降ロシア人を上三旗に編入するだけでなく、彼らのもともと持っていたものと同等の品級(階級)を与えることを命じている。これについてもう少し補足すると、『聖祖實錄』(4) 卷一百十一 康熙二十二年(1683)十一月癸未(十六日)條に
とあり、二年前の康熙二十二年に投降者、捕虜の宜番(イワン)に驍騎校(正六品),鄂噶番(オガファン?)、席図頒(シトゥバン、ステパン?),吉礼過里(グレゴリ),鄂佛那西(アファナシェフ?)、馬克西木(マクシム)らに七品官が授けられている。 さらに、康煕二十六年~同三十二年(1686~93)に、清に滞在し、康熙帝のそば近くに仕えたフランス人宣教師ブーヴェもその著『康煕帝伝』(5)で、
と記録しており、彼らロシア人捕虜がかなりの厚遇を受けていたことがわかる。
捕虜の中にいたロシア正教司祭マクシム=レオンチェフは、東直門内のとある小さな関帝廟の建物を与えられた。彼はこれを臨時の礼拝堂とし、「聖ニコライ礼拝堂」と名づけた。これが歴史上最初の北京のロシア正教教会である(6)。 康煕三十五年(1696)、レオンチェフとトボリスクのイグナチエフ府主教はこのにわか作りの教会を拡張し、「聖ニコライ聖堂」(聖ソフィア聖堂とも呼ばれる)とした(7)。この聖ニコライ聖堂は清朝側からは「羅刹廟」とも呼ばれた(後述)。
(図二)羅刹廟 図一の聖ニコライ聖堂(羅刹廟)の部分を拡大。 十字架を持つ塔のような建造物も見える。
康煕五十一年(1712)にレオンチェフが死去すると、北京のロシア人は新たな司祭の派遣を求め、1714年、それに応えたピョートル1世(大帝)は北京に伝道団を派遣した(8)。 雍正五年(1727)に締結されたキャフタ条約の取り決めでは、伝道団は10年交代(後5年交代に変更)で北京に派遣され、毎回約4名の聖職者と6名の世俗の者によって構成されていた。 さらにキャフタ条約では、ロシア正教会に北京で新たな聖堂を建てることを許しており、これにより北京内城南部の東江米巷(東交民巷)に第二の聖堂「奉献節聖堂」が建設され、こちらは「南館」と呼ばれ、内城北部に位置する聖ニコライ聖堂は「北館」とも呼ばれるようになった(9)。 以後、この伝道団は、紆余曲折を経ながら1955年まで北京で活動を続け、北京のロシア正教布教の中心となった。また、彼らは理藩院の監督下で清露貿易、外交事務にもかかわるなど、一種の大使館的な役割をも果たしていくことになる(10)。また、このような「ロシア大使館」的な性格から、この伝道団は中国研究・情報収集の拠点ともなり、18世紀以降、ここから多くのロシア人中国学者が巣立っていくこととなる。 なお、彼らロシア人司祭・伝道団の布教範囲は、俄羅斯佐領内のロシア人やロシア商人など、概ねロシア人内部に限られ、中国人への布教はほとんど行わなかったようである(11)。 こういった努力もあり、典礼問題のごたごたや雍正・乾隆以後のキリスト教禁止令の影響を受けることはなかったらしい。
(図三)清末の聖堂と胡家圏胡同 『詳細帝京輿圖』光緒三十四年(1908)(『老北京胡同詳細図』中国画報出版社 2006) 内城東北角の「俄國館(聖ニコライ聖堂、ロシア伝道団)」やや南西側に「胡家圏」という地名がある。『乾隆京城全圖』の「楜椒園衚衕」とほぼ同じ位置にあることから、「胡家圏胡同」と「楜椒園衚衕」は同じ場所を指すと考えられる。
(図四)現在の様子(google earth) 現在の様子。マーカー位置(緯度、経度)は図一と同じ 胡家圏胡同は現在完全に消失。 聖ニコライ聖堂(羅刹廟)はロシア大使館の敷地内に。
古都北京デジタルマップ『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧 http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/ (バージョン1.0 / 2008年7月14日公開) (2008年8月3日アクセス)
……………………………………………………………………………………… (1)兪正燮「俄羅斯佐領考」(兪正燮『癸巳類稿』巻九、上海商務印書館、1957年)では「胡家圏胡同」となっており、多くの論著もそれにしたがっているが、『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/ 図一、図二) では「楜椒園衚衕」と表記(「楜椒」は「胡椒」、「衚衕」は「胡同」の異体字)。 まず、『乾隆京城全圖』で聖ニコライ聖堂(羅刹廟)と「楜椒園衚衕」の中間に位置する履親王府について文献をあたると、北京胡同網 襄敏貝子務達海的府邸(2008年8月3日アクセス) http://www.hottoo.com/Article/wf/200712/9834.html 、馮其利『尋訪京城清王府』(文化芸術出版社(北京)2006)のp.138「17 履親王府和植公府的変遷」では、履親王府の西側に「胡家園」があり、東側に池やロシア正教会があったとしており、「胡家園」は『乾隆京城全圖』の「楜椒園」と同じ位置となる。したがって、「楜椒園」と「胡家園」は同じ場所と思われる(図一参照)。 July 08 「屈辱の石碑」移転へ「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定来年までに本来の場所に近いロッテワールド裏手に(『朝鮮日報』2008年6月18日)http://www.chosunonline.com/article/20080615000008 韓国の歴史上極めて大きな「屈辱の象徴」である三田渡碑(史跡第101号)が、現在の位置から北側に1キロほど離れたロッテワールド・マジックアイランドの入り口近くに移転されることになった。 文化財庁が9日に発表したところによると、「最近開かれた文化財委員会史跡分科会議で、“三田渡碑の移転は妥当だ”という意見で一致を見た」という。史跡分科委員長を務める梨花女子大の韓永愚(ハン・ヨンウ)碩座敎授(寄付金によって研究活動を行えるよう大学の指定を受けた教授)は、「これまで移転できなかったのは本来の場所が確認できなかったからで、今回は相当細かく考証が行われた」と語った。 これにより、現在ソウル市松坡区石村洞289‐3番地の住宅の中にある三田渡碑は、石村湖水西湖の北東側にある緑地帯へ移される見込みだ(地図参照)。ここは韓国を代表する遊園地、ロッテワールドのビルのすぐ裏手に当たり、西湖の中心にあるロッテワールド・マジックアイランドとも隣接している地点だ。松坡区のイ・ヨンジュ文化体育課長は、「ソウル市公園審議委員会の審議を経た後、文化財庁の予算支援を受け、来年上半期までに移転を終える計画だ」と語った。松坡区は、石碑を収容する建物を新たに作ることも検討しており、予算は1億ウォンから2億ウォン(約1037万円‐2075万円)と見積もられている。なお、仁祖が降伏する光景を描写した石碑の横の銅板は、1983年に作られたもので文化財的な価値はない、という文化財委員会の判断に基づき撤去される。 高さ5.7メートルのこの石碑は、1639年(仁祖17年)の丙子胡乱(清の朝鮮侵攻)に破れた朝鮮が、清の太宗の要求により彼の功徳を称えて建てたものだ。長い間百済古墳路などに放置されていたため、本来の位置が分からなくなり、1983年に現在の場所に移された。昨年には何者かが赤いスプレーで落書きをするなど、絶えずいたずらの被害にあっている。また、史跡の周辺100メートル以内の建物が新築時に高さ制限を受けるなどといった規制による住民の不満も根強く、松坡区は2003年から文化財庁とソウル市に石碑の移転を要請していた。 松坡区から依頼を受けたソウル市立大ソウル学研究所は、文献や古い地番図、住民の証言などを基に綿密に調査した結果、今年2月に報告書で「石碑の本来の位置はマジックアイランド横の石村湖水西湖北東部周辺」と結論付けた。石村湖水の水を汲み上げない限りその場所に建てるのは不可能なため、最も近い地点を選択したというわけだ。ただし、移転に対する憂慮の声もある。韓国文化遺産政策研究所のファン・ピョンウ所長は、「1983年に現在の場所へ石碑を建てた、という事実も既に歴史の一部なのに、開発のため本来の位置でもない場所へ史跡を移すのは問題がある」と語った。 兪碩在(ユ・ソクジェ)記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 /////////////////////////////////////// 三田渡碑については、
2007年2月8日のブログでこういう記事を紹介。 スプレーで落書きされたらしい。
この三田渡碑は地元住民にも厄介者扱いされ、最近になって移転の機運が高まっていた。
そして、上の記事にあるように、ついに移転が決定。
>なお、仁祖が降伏する光景を描写した石碑の横の銅板は、1983年に作られたもので文化財的な価値はない、という文化財委員会の判断に基づき撤去される。 よっぽど嫌だったんでしょうな・・・・・・
前にも書いたが、この石碑は韓国人、朝鮮人にとっては屈辱の象徴だろうが、碑文が満洲語、モンゴル語、漢語の三言語で刻まれており、言語学、歴史学の貴重な史料なので、ぜひともしっかりとした保存手段を講じて欲しい。 記事にもあったが、建物で覆ってしまったほうがいいかも。
一度ソウルに行って、辞書片手に碑文を翻訳してみたくなった。
June 28 東京陵(遼陽)写真―ムルハチ、ダルチャ墓―2005年5月東京陵には、ヌルハチの異母弟ムルハチ(Murhaci 穆爾哈斉、穆爾哈赤)とその子ダルチャ(Darca 達爾察、碑文の漢文部分では「大爾差」と表記)の墓もある。位置はシュルガチ、チュエン墓から南東へ徒歩10分前後の場所。 壁で囲まれ、内門の内側の一つの墓域の中に親子二人の墳墓が並んでいる。 外側の門と墓域の門の間は、墓碑の区画となっており、康熙十五年(1676)に建てられたムルハチ墓碑(中央)と康熙十年(1671)に建てられたダルチャ墓碑(右)がある。碑文はともに満漢合璧。付近の住民がお守り代わりに墓碑の石を削り取って行ったらしく、碑文のところどころに四角い穴が開いている。 そしてムルハチ墓碑の左には、子孫の宝熙、熙洽(きこう)により満洲国時代に建てられたコンクリート製の漢文の碑があり、「康徳二年五月二十四日」の日付が読み取れる(康徳二年=1935年 ※満洲国の元号)。碑亭はない。
(google 衛星写真を除き、全て2005年5月筆者撮影)
東京陵配置(google衛星写真より作成 2008年6月12日アクセス)ムルハチ(右)、ダルチャ墓(左)(一枚目の衛星写真の赤い円部分を拡大)墓域配置図(一枚目の写真により作成)壁で囲まれ、外側の門と内側の門の間に墓碑と「康徳二年」碑があるムルハチ(手前)、ダルチャ(奥)墓碑碑亭はないダルチャ墓碑碑文(部分)碑文の一部が四角く削り取られているのは、付近の住民がまじないやお守りのために削り取っていったものらしい(細谷良夫編『中国東北部における清朝の歴史-1986~1990年-』p69)「康徳二年」碑(康徳二年=1935年 ※満洲国の元号)コンクリート製、子孫が建てたものムルハチ墓碑の左側
墳墓側(北側)から撮影後ろにムルハチ(右)、ダルチャ(左)の巨大な墓碑が見えるムルハチ墓(左)、ダルチャ墓(右)コンクリートによる補修が施されている。前掲書p69によれば、この補修は満洲国時代のもの・・・・・・・・・ 参考文献・サイト(順不同) 細谷良夫 編『中国東北部における清朝の史跡ー1986~1990ー』(平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3)1991 松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選 11 白帝社 1995 承志・杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告ー2005年遼寧・吉林踏査行ー」(『満族史研究』第5号 2006) 綿貫哲郎'S tere inenggi 東京陵:中国遼寧省遼陽市(2008年6月27日アクセス) June 13 東京陵(遼陽)写真―チュエン(褚英)墓―2005年5月ヌルハチの長子チュエン(Cuyeng,褚英)の墓は東京陵のシュルガチ墓の南隣に位置している。 東京陵配置(google衛星写真より作成 2008年6月12日アクセス)シュルガチ墓(北)、チュエン墓(南)(一枚目の衛星写真の黄色の楕円部分を拡大)チュエン(1580~1615)は、ヌルハチの長男。多くの戦いに活躍した知勇兼備の将で、ヌルハチからも後継者に指名され、万暦四十年(1612)に権力の一部を移譲された。だが、そのことがチュエンと、弟たちそして五大臣と呼ばれるヌルハチ子飼いの重臣たちとの対立・抗争を招き、ヌルハチもチュエンを信用しなくなった。憤ったチュエンは翌年正月にヌルハチや弟たちを呪詛するという事件を起こし、ヌルハチはチュエンを幽閉、二年後の万暦四十三年(1615)八月に処刑している。
チュエン墓は、写真二枚目を見てもわかるとおり、方形の墓域の中には墓碑も碑亭も存在せず、ただ墳墓のみがある非常に寂しいものとなっている。 シュルガチもチュエンも共にヌルハチの不興を買い、失脚そして死亡しているが、シュルガチは死後名誉回復されて荘親王に封じられたのに対し、チュエンの名誉は回復されることはなかった。 王朝の始祖の長子の墓としてはあまりにも寂しい。
チュエン墓の門(2005年5月撮影)説明(2005年5月撮影)チュエン墳墓(2005年5月撮影)墓碑も碑亭もないチュエンについての主な参考文献は以下の通り。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 参考文献 閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社 1983 松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選 第十一巻 白帝社 1995 鴛淵一「褚英の死に就いて」(『史林』第十八巻第二号 1933) June 12 東京陵(遼陽)写真―シュルガチ墓―2005年5月2005年5月29日、遼陽にある東京陵を見学したときの写真です。 東京陵(google衛星写真より作成 2008年6月12日アクセス) 西側に位置するのが、シュルガチ、チュエン墓、東にムルハチ、ダルチャ墓
東京陵は、遼寧省遼陽市東郊外にある清朝皇族の陵墓群。遼陽は後金(清)のヌルハチが一時都を置いていたところで、ここ東京陵には祖父ギオチャンガ(Giocangga,覚昌安)と父タクシ(Taksi,塔克世)以下のヌルハチ一族が葬られていた。 だが、天聡三年(1629)太祖ホンタイジの生母の孝慈高皇后(モンゴ=ゲゲ、Monggo gege, 孟古格格)が瀋陽の福陵に改葬、次いで順治十五年(1658)ギオチャンガとタクシが永陵に改葬され,現在はヌルハチの同母弟シュルガチ(Šurgaci,舒爾哈斉または舒爾哈赤、墓碑ではŠurhaci,舒尓哈齊と表記)と異母弟ムルハチ(Murhaci,穆爾哈赤),長男チュエン(Cuyeng,禇英),ムルハチの子ダルチャ(Darca,達爾察)の墓が残されている。 シュルガチ墓とチュエン墓は、東京陵区域の西側に位置している。彼らの墓は通常の皇族の陵墓と異なり南面せず、西面している 。これは彼らが生前にヌルハチの不興を買い失脚、死亡したのが原因とされている。
まずはシュルガチ墓から 。シュルガチ墓は壁に囲まれた長方形の墓域で、外側の門をくぐると碑亭の建つ長方形の区画があり、碑亭を通り過ぎて内側へと進むと墳墓がある。 シュルガチ(1564~1611)はヌルハチの同母弟で、多くの戦いで活躍。また弟として、一時はヌルハチとの「二頭政治」ともいえる大きな権力を誇っていたが、後に対立。明の万暦三十七年(1609)に、領民を率いて勝手にヘチェム(渾河上流)地方に引っ越して自立の動きを見せたことにより全ての権力と領民を剥奪され、しかも自立をそそのかしたとして長男と三男を処刑されてしまう。 対立の原因については、清朝の公式史料では万暦三十五年(1607)のウラ部とのフィオ城の戦いと烏碣巌の戦いでシュルガチが戦闘に参加せずヌルハチの不興を買ったこととしているが、歴史研究者からはヌルハチがシュルガチの権力削減を意図したこと、あるいは政治路線上の対立と見られている。 シュルガチはその後すぐに復権し領民も返還されているが、鬱々として楽しまず、万暦三十九年(1611)に死去した。死因についてはヌルハチによる他殺説と病死説がある。死後、順治十年(1653)に名誉回復され荘親王に追封されている。 シュルガチ墓(北)、チュエン墓(南)(一枚目の衛星写真の黄色の楕円部分を拡大)シュルガチ墓の外側の門(2005年5月撮影)門の中に碑亭が見える
シュルガチ碑亭(2005年5月撮影)シュルガチ墓碑満漢合璧碑文(満文)(2005年5月撮影) シュルガチ墓碑満漢合璧碑文(漢文)(2005年5月撮影)碑文の全文は以下のとおり。 凡例 1、満洲語の入力は、メーレンドルフ式ローマ字を用いる。2、史料中の改行は/で示す。3、史料中の抬頭は○で示す。 満文 ambalinggū darhan baturu cin wang ni bei bithe./gūnici gurun boo,uksun,erdemungge 莊 darhan baturu親 王 の 碑 文 惟うに 国 家は 宗室、有徳の者 urse be iletuleme,mukūn be wesimbuleme, bisire de wesihun jergi bure ,akū oho たち を顕彰し、一族のものを尊重して、 高位にせんとするも、 亡くなった manggi amcame fungnengge fulehe gargan be jiramilara, dosholome gosire ので、 追 封し 本家と連枝を厚遇して、 寵愛と 慈しみ be tuwaburengge. /darhan baturu šurhaci si/○taidzu dergi hūwangdi i banjiha deo, を明らかにするものである。darhan baturu シュルガチ汝は太祖高皇帝 の胞(同母)弟、 mini ecike mafa。jalan wesihun bime, abkai fisen de umesi hanci.geli sain jui be ujifi, わが叔祖(大叔父)。世代が上であり 天潢(皇族)に 極めて近しい。また良き子を養い、 amba gung be ilibuha be dahame,giyan i amcame wesihulefi, ginggun erdemu be iletuleci 大 功 を 立てたことを記録し、よろしく 追 崇して 謹 徳 を明らかに acambi./tuttu ofi cohome ambalinggū cin wang seme nonggime fungnefi, すべきである。よって特に 荘 親 王 とし、加 封して fiyanji dalikūi jergi de obufi, omosi de werihe sain be iletulehe. šeri fejergi de eldembume, 藩 屏 の 位 とし、子孫 に 残した 善 を明らかにした。泉 下 に祖先の名を輝かせ、 mukūn be ujelere gosin be badarabuha.bei wehe de/folofi enteheme mohon akū tutabuha. 一族 を 敬う 仁 を 広めた。 碑 石 に 彫って 永く 果て なく 残した。 /ijishūn dasan i juwan emuci aniya ,ilan biyai juwan de ilibuha. 順 治 十 一 年、 三 月 十日 に立てた。
darhan baturu:シュルガチの生前の称号 darhan:モンゴル語、大きな功績を挙げたものへの称号 baturu:勇者 mukūn:同姓の一族、仲間。gargan:仲間、枝、支族。 (満文は急いで写し取ったので間違いがあるかもしれません)
漢文(標点は筆者)
莊達尓漢把兔魯親王碑/ 惟國家褒顕宗英、推崇皇族、生頒榮秩、歿予追封、所以篤本支昭親愛也。 尓達尓漢把兔魯舒尓哈齊乃/ ○太祖高皇帝胞弟、朕之叔祖、糸序既尊天潢孔切、 更生賢胤、克奏膚功。宜用追崇彰祇徳茲特/加封尓為莊親王、列在藩屏、 聿展貽孫之媺光、施泉壤允敷敦族之仁。勒諸貞[王民]永垂不朽/
シュルガチ墓 墳墓(2005年5月撮影)
シュルガチについての主な参考文献は以下の通り。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 参考文献・サイト (参考文献) 閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社 1983 松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選 第十一巻 白帝社 1995 孟森「清太祖殺弟事考実」(『明清史論著集刊』上 中華書局 1959→1986年再版) 鴛淵一「舒爾哈斉の死―清初内紛の一齣―』(『史林』第十七巻第三号 1932) 松村潤「シュルガチ考」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社、1983) (サイト) 桃花 明末清初篇 シュルガチ(2008年6月14日アクセス) http://www.biwa.ne.jp/~hss727rs/pf0214.htm
May 10 火器営-清朝の諸兵科連合部隊-火器営は、康煕三十年(1691)に京旗(禁旅八旗、北京に駐屯する八旗)の満洲、蒙古旗人によって編成された皇帝直属の火器専門部隊である。兵力は、時期によって異なるが約6000名~7000名であり、その任務は鳥鎗(火縄銃)を装備する騎兵と子母砲の統合運用であった。いわば諸兵科連合部隊のはしりともいえる。 鳥鎗(火縄銃)(『皇朝禮器圖式』巻十六)
なお清代の史料で火器営はしばしば「満洲火器営」の名で記されている。これは漢軍や緑営といった既存の火器軍との区別のためと思われる。
火器営が編成された直接のきっかけは前年のガルダンとのウラーンブトンの戦い(1690)であった。この戦いでの清朝側の戦訓認識を分析すると、 ① 清軍が火器による大損害を受けた ② 火器と騎兵の連携が必要。これまでのような騎兵突撃一辺倒では射撃の的になるだけ ③ 大型火砲は即応性に欠ける。輸送、補給の困難。 の三点に集約される。 そして、この戦訓に基づいて編成されたのが火器営であった。
火器営と既存の火器軍である漢軍・緑営との最も大きな相違点は、機動力を重視した装備と戦術であった。漢軍は紅夷砲系の大型火砲を運用し、固定的な陣地戦や城攻めを得意としたのに対し、火器営は鳥鎗や子母砲といった軽量火砲を装備し、騎兵と火器の連携による機動戦を得意とした。 康煕三十五年(1696)のモンゴル親征でも八旗漢軍がしばしば行軍の足を引っ張っていたのに対し、火器営は騎兵の精鋭部隊である前鋒、護軍に随伴して行動している。 子母砲は明代に伝来した佛郎機(フランキ)砲を改良したもので、カートリッジ式の弾薬を用い、発射速度が速く、軽量で持ち運びも便利であったから、この種の任務にはうってつけだった。 子母砲(『皇朝禮器圖式』巻十六 武備) 子母砲後部 (北京 軍事博物館 2006年5月撮影)
そして、より大きな視点で見れば、火器営の編成はこれまでの中国内地統一戦から外征へ、すなわち交通路が整備された中原での固定的な攻城戦・陣地戦から交通路の劣悪な塞外での流動的な機動戦という時代の流れへの対応策だったといえる。 以後、清朝の相次ぐ外征のなかで火器営はその機動力と火力を生かして活躍。特に、前述のモンゴル親征や乾隆年間の金川の戦いでは大きな手柄を立てている。 また、反乱鎮圧の際にはしばしば緊急展開部隊として火消しに用いられ、 乾隆三十九年(1774)の山東の王倫の反乱、同四十六年(1781)の蘭州と四十九年(1784)の寧夏の回民(回族)の反乱鎮圧、嘉慶十八年(1813)の天理教徒の紫禁城乱入事件などで鎮圧に活躍している。 現在、北京北西郊外に「藍靛廠火器営」なる地名が存在するが、そこは清代の火器営(外火器営)の駐屯地であり、今なお多くの満洲族が集住している。 次回からは火器営の成立事情について、清代の火器史や対外関係史を絡めつつ述べていきたいと思う。 火器営の旗 護軍参領纛、驍騎参領纛、驍騎校纛(『皇朝禮器圖式』巻十七 武備) 炎をかたどった縁取りが特徴的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 参考文献 『親征平定朔漠方略』西蔵社会科学院西蔵学漢文文献編輯室影印 西蔵学漢文文献彙刻第四輯 中国蔵学出版社 1994 『康煕帝伝』ブーヴェ 後藤末雄 訳 矢沢利彦 校注 平凡社東洋文庫155 1970 『八旗通志(初集)』東北師範大学出版社 1985 雍正『大清會典』天理図書館所蔵本 雍正十年(1732) 乾隆『大清會典』四庫全書本 『欽定四庫全書』上海古籍出版社 1987 『皇朝禮器圖式』四庫全書本 『欽定四庫全書』上海古籍出版社 1987 April 19 瀋陽北塔 エイドゥ(額亦都)碑文2006年2月に瀋陽の北塔(法輪寺)を訪れたときの写真です。
清(後金)はモンゴルを同盟者として取り込むため、チベット仏教をとりわけ重視していた。
ホンタイジは盛京(瀋陽)鎮護のため、周辺東西南北に一寺ずつ、計四寺のチベット仏教寺院を建立し、それぞれに白塔を建てた。
これらの塔はそれぞれ東塔、西塔、南塔、北塔とよばれ、まとめて「奉天四塔」とも称された。
満洲事変で有名な柳条湖付近にある法輪寺にはこれら「奉天四塔」の一つ北塔がある。
寺院境内にはチベット文字やモンゴル文字が目立ち、周囲とは異質な空間。
盛京からモンゴル、そしてラサへと伸びるホンタイジの視線がありありとうかがえる。
また、寺院内の碑林には瀋陽で見つかったいろいろな石碑が展示されている。
ただ、けっこう無造作に扱われているような気がして残念。また、寺の門外には修復、整理中の石碑がたくさん集積されていた。
見ものはヌルハチの「五大臣」の一人エイドゥ(額亦都)の碑文(順治十一年(1655)四月十八日)
このように横倒しになった形で展示。
amba baturu gung eidu i bei bithe (弘毅公エイドゥの碑文)やtaidzu hūwangdi(太祖皇帝=ヌルハチ)といった文字が読み取れる。
損傷や欠落が多いのが非常に惜しまれる。
September 30 準回両部平定得勝図京都国立博物館蔵
最近発見しました。
こちらのページで閲覧可能です。
まず、「収蔵品データベース」の三角印をクリック、その後検索画面で作品名に「準回両部平定得勝図」と入力して、検索ボタンを押してください。
原画を描いたカスティリョーネは現地を訪れておらず、戦況報告に基づいて想像で描いたものですが、当時の八旗やジュンガル部の装備がよくわかります。
特にジュンガル兵が馬上で鳥槍(火縄銃)の射撃姿勢をとるシーンが多数描かれているところが面白いです。
ジュンガルの火器には清朝も相当手を焼いたらしいですね。
『秦辺紀略』、『親征平定朔漠方略』、『平定準噶爾方略』など多数の史料に記述されているジュンガルの銃兵の戦いぶりがよく伺えます。
July 22 「屈辱の石碑」つづき2月8日のブログでこういう記事を紹介したが、 最近、この三田渡碑の移転の機運が高まっているそうだ。
なんでも、碑は元々別の場所にあったものを83年に移築したもので、現在はこの碑の周辺が不良少年やホームレスのたまり場になったり、「史跡」であるがゆえに周りの建物が高さ制限を受け、住民の不満の的となっている。
「地下鉄8号線の石村駅が目と鼻の先にあるという優れた立地条件にもかかわらず、三田渡碑のせいで商圏が死んでしまっている。“石碑を移転すれば、不動産が相応な価格に上がるはず”と不満をこぼす声が多い」(地元の不動産業者)。
そして、2月にはスプレーで落書きされる事件が発生。
そういう経緯もあって、今や地元では厄介者扱いされ、現在移転運動を推進中とのこと。
韓国の文化財庁も移転を検討し始めたようだ。
韓国人にとっては屈辱の歴史だが、満洲・モンゴル・漢文の三か国語で書かれた石碑は歴史学・言語学における貴重な史料なので、早急に適切な保存策を練ってほしい。
ラストエンペラー溥儀の天津旧居:修復作業が完了
紫禁城を追放されてから「満洲国執政」となるまでの約6年間、溥儀が住んでいた家「静園」が最近修復されたとのこと。溥儀はここでかなり優雅な生活を送り、天津の社交界では依然国家元首なみの待遇を受けていたようだ。 (入江曜子『溥儀―清朝最後の皇帝』岩波新書(新赤版)1027 2006年7月) 戦後は民間人の家になったりしており、別の文献の写真で見ると壁には蔦が這っており、最近はかなりボロボロになっていたが、このほどやっと修復されたようだ。 これも最近の「愛国教育」の教材(という建前の観光開発)としてかな? まあ、なんにせよ、文化財が修復されるのはいいことだ。
May 27 バーチャル明清史専門店先ほど、アマゾンのインスタントストアという機能を使って、明清史専門のネット書店を作ってみた。
URLはこちら
ブログのいちばん右上にもリンクを設置しておきました。
作った理由は、
①文献リストとして
今まで読んできた本やこれから読もうと思う本を整理。感想メモも付け加えておいた。
②自由度
このブログにもこれまで文献リストを載せてきたが、インスタントストアの方が簡単にきれいなリストを作れるし、分類分けもやりやすい。
③明清史ファンを増やしたい。
より多くの人に明清史の面白さを知ってほしい。マイナーだけどいい本、検索で見つけにくい本を中心に選んでおいた。
そして
④もうかるといいなあ (^。^)y-.。o○
皆さんどんどんクリックして買っていってね。
という四点です。
いまはまだまだ乱雑な「書店」ですが、暇を見て少しずつ充実させていきたいと思います。
興味のある方はぜひどうぞ。
February 21 女真人と農業 女真族、すなわち後の満洲族にはつねに狩猟民族という冠が付く。
確かに女真人の生活において狩猟は重要な地位を占めていたが、必ずしもそればかりでは括れない。
まず、明代、現代の中国東北部(満洲、マンチュリア)東南部に居住していた建州女真(マンジュ五部)と海西女真(フルン四部)は主に撫順で貿易を行っていたが、女真側からの輸出品目は馬(どうもモンゴルから手に入れた馬を転売していたらしい)、貂皮、人参などであったのに対し、明側からは牛、農具(すき、くわ)、衣類が大量に輸出されている。また、朝鮮との貿易でも同様な事実がみられるという(河内良弘『明代女真史の研究』)。
なお、東北地区で発見された金代女真人の遺跡からも大量の鉄製農具が出土している。
次に、明代の建州女真人はモンゴル人のような遊牧民とは異なり定住生活を営んではいたが、しばしば部族単位での大移動を行っている。だが、その移動時期は戦争や災害による緊急避難的なものを除いて、すべて三,四月ごろに集中しており、偶然の一致というには無理がある。
その理由は、農業開始の時期を考えればこの時期しか選択の余地がなかったためらしい。
中国東北部では旧暦四月(新暦五月)中旬ごろから秋八、九月(新暦十月)ごろまでが農業シーズンとなる。その後、秋の収穫が終わると、東北はすぐに厳冬期へと突入し、移動や野営にはまったく不向きとなる(実体験から言えば冬の東北での野宿は死に直結しかねない)。年が明けて旧暦二、三月ごろに雪解けが始まり、やっと移動が可能になる。
すなわち、農業への影響を及ぼさずに移動を行うには三月から四月を選ぶしかないのである。
明代女真人、特に建州女真の生活には農業が非常に大きな比重を占めており、移動生活においても農業を無視することは不可能だったのである(河内良弘「建州女直の移動問題」)。
第三に明代に建州女真を訪れた李氏朝鮮の使節は異口同音にいたるところで農業が行われていることを報告している。
たとえば朝鮮の使節申忠一は1595年に建州女真のヌルハチを訪問しているが、街道沿いの平地はほとんどが耕地となり、道中のいたるところで山の頂まで土地が耕作されていることを報告している。
以上、東北地方の女真の間では農業生産が非常に盛んであって、生産全体にしめる農業の比重は非常に高かった。女真族は狩猟民族あるいは半農半猟と呼ばれるが、実際のところは農業が生産手段の主体を占めていたようである。
のちに後金(清朝)成立後、女真族(満洲族)は遼東、さらには中原へと進出していくが、その際にモンゴル的な制度、慣習を守り続けた元とはことなり、清が漢族の文化を比較的スムーズに吸収できた理由として、彼らの農業経験からくる農業社会への理解を挙げる者も多い。
参考文献
河内良弘「建州女直の移動問題」(『東洋史研究』第十九巻第二号 1960)
同 『明代女真史の研究』(同朋舎 1992)
松浦茂 『清の太祖ヌルハチ』(白帝社 中国歴史人物選 第11巻 1995)
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重要なお知らせ
念のために書いておきますが、私がこの文章をブログに載せたのは2007年の2月です。決して盗作ではありませんのであしからず。
まあこの雑文が誰かの役に立ったのなら良しとしましょう。
(2008.6.3) February 08 バカなやつだ! mentuhun ningge !いままで清朝や満洲族のことをやってきて今日ほどショックだったことはない。
今日、偶然こんな記事を見かけて悲しくなった。
歴史を争いの種にするのはいいかげんやめてほしい。
(「丙子の乱」は前から興味のあった歴史的事件で、「グルマフン(鄭命寿)」(上)、 (下)でも少し書いたけどね)
November 19 溥儀は関東軍に売られたのか?1945年8月9日午前零時、ソ連は日本に宣戦を布告。ただちに大規模な進攻を開始した。
ソ連軍の圧倒的な戦力に抗し切れない関東軍は翌10日、通化への「遷都」を決定。13日0時30分、溥儀や皇族、関東軍将官、満洲国高官を乗せた特別列車が新京(長春)を出発し、その日の夕刻に通化に到着。さらにそこから10時間ほど奥地に入った大栗子溝に向かい、14日に到着。
そこで玉音放送を聴き、日本の降伏を知った彼らは日本への亡命を図る。
そして17日深夜「退位詔書」を読み上げ、満洲国の解消を宣言した後、19日に小型機で平壌に向かい、大型機に乗り換えて日本へ飛ぶ手はずを整えた。
だが、その直前に平壌行きがなぜか奉天(瀋陽)行きに変更された。
溥儀への説明では、平壌での出迎えが不可能になったということだった。
19日午前9時、溥儀一行は通化から小型機3機に分乗して奉天に向かい、溥儀の乗る一号機は11時に奉天東飛行場(東塔機場)に到着。この時点で飛行場はまだ日本軍が掌握していた。だが、一行が昼食を取り、後続機を待っているときにソ連軍空挺部隊が飛行場に強行着陸し、一行を拘束、直ちにソ連へ護送した。
これは非常に有名な出来事であるが、中国や日本の一部では、このときすでに関東軍とソ連軍の間に溥儀を引き渡す密約が出来ていたのではないかとする説が根強くささやかれており、その概要は遼寧電視台製作のドキュメンタリー『愛新覚羅溥儀』や入江曜子『溥儀-清朝最後の皇帝-』等で紹介されている。
密約説の主な根拠は以下のとおり
ドキュメンタリー『愛新覺羅溥儀』に出演した中国の研究者は、この時期(19日以前)に関東軍とソ連軍のトップ間の接触が行われた証拠はないとして、この説には否定的だった。
また入江女史も、あるいは日本政府や現地の軍の一部が亡命計画に反発して仕組んだわなだったかもしれないとはしながらも、ソ連軍指揮官が初めは溥儀の身分を知らなかったことを取り上げ、断定は避けている。
非常に興味深い説ではあるが、当事者のほとんどすべてが世を去った今では真相を確かめるすべはない。
ロシアか日本で何か新史料が発見されれば別だが・・・・・・。
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