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    November 03

    光緒帝の死因はヒ素中毒だった!

    時事ドットコム:清末の光緒帝、死因はヒ素中毒=毒殺説を裏付け-中国政府調査(香港2日時事)

    http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2008110200138

     

    现代技术确证清光绪帝死于急性砒霜中毒

    http://xk.cn.yahoo.com/articles/081103/1/enzd.html

     

      今日、中国の各マスコミで大きく報道されています。

     光緒帝の頭髪、遺骨や衣服を調査したところ、致死量をはるかに超えるヒ素が検出されたとのこと。

     

     光緒帝は、光緒三十四年(1908)に死去したが、その日が西太后(慈禧太后)死去の前日だったこともあり毒殺説が根強かった。だが1980年に光緒帝の陵墓が発掘された際の調査では頚椎や頭髪からは中毒の痕跡が見いだせず、遺体にも外傷が見られなかったことから、いったんは肺結核による病死説に落ち着いた。

     その後2003年、中央電視台、清西陵文物管理処、中国原子力研究院や北京市公安局(警察本部)法医学鑑定センター等による共同研究プロジェクト「清光緒帝死因」専門研究課題チームが編成され、同時に国家清史編纂委員会の研究プロジェクトにも組み入れられた。

     そして、研究チームが約5年の時間をかけ、最新の技術を用いて光緒帝の頭髪、遺骨や衣服を新たに分析した結果、致死量をはるかに超える大量のヒ素が検出され、史料とも照合し、毒殺という結論に至ったらしい。

     

     ただ、毒殺者が誰かはまだわからないとのこと。

      西太后か、宦官の李蓮英か、はたまた袁世凱か?

     

     

     

     こういう学際協力による研究は面白いですね。

     ただ、ヨーロッパではヒ素は遺体の防腐処理に用いられる場合があり、遺体からヒ素が検出されても毒殺とは断定しにくかったりするんですが、中国ではどうなんでしょう?

     

    (追加:前近代中国の遺体防腐処理は朱砂(硫化水銀)が主流だったようです)

     

     続報期待!

     詳細な調査報告書の出版を待ちたい。

    October 24

    末代皇后

    さっきネットで偶然発見した記事
     
    Yahoo!ニュース - 時事通信 - 最後の皇后、60年ぶり夫の元に=写真1枚だけ埋葬-中国
     
    最後の皇后、60年ぶり夫の元に=写真1枚だけ埋葬-中国

     【北京24日時事】中国のラストエンペラー、愛新覚羅・溥儀の夫人だった婉容さんが、死後60年ぶりに河北省にある夫の墓のそばに葬られた。遺骨はなく、納められたのは生前の写真1枚だけだが、アヘン中毒のため監獄で病死したとされる「最後の皇后」がようやく安息の地を得た。24日付の中国紙・新京報が報じた。 
    (時事通信) - 10月24日17時1分更新
     
     

    彼女が吉林省延吉の監獄で死んだのち、どこに葬られたのかは現在でも不明らしい。

    なお、溥儀が一番気に入っていた譚玉齢(祥貴人)の遺灰(長春の偽皇宮に収められていた)ももうすぐ溥儀の墓に合葬されるらしい。

    これまで清西陵に位置する墓に一人ぽつんと眠っていた彼もやっと寂しさから解放されるかも。

    (あの世で三角関係が発生したりしてね)

    July 23

    グルマフンと日本(おまけ)

     この間、清朝の通訳グルマフン(朝鮮名:鄭命寿)について書いたが、今回はそのグルマフンと日本とのちょっとしたかかわりについて書いてみる。
     
     寛永二十一年(清順治元年 1644)に沿海州に漂着した国田兵右衛門ら日本漂流民は清の当局に保護され、やがて北京へと護送された。彼らは約1年間北京で生活したあと、朝鮮を経由して日本へ帰還。彼らが清と朝鮮で見聞きした内容を記録し、幕府へ提出したものが『韃靼漂流記』である。
     
     さて、北京での生活を終えた国田兵右衛門ら漂流民は、順治二年(1645)十一月、朝鮮への冊封使に同行して出発。冊封使はドルゴンの腹心キチュンゲ(祁充格)、その通訳があのグルマフンだった。漂流民は十二月二十八日に京城(現ソウル)に到着。朝鮮は清と日本への外交上の配慮もあり、待遇にはかなり気を使ったようで、たまたま年末年始に当たったこともあり、豪華な宴会を催して大歓迎したらしい。
     
     漂流民は5,6日京城で過ごした後、順治三年(朝鮮仁祖二十四年 1646)正月四日に出発し釜山に向かうことになっていたが、その前日にグルマフンが例のごとく無理難題を持ちかけた。いわく「朝鮮の役人は漂流民を護送して日本に入り、関白に会って直接(清の)勅諭の意を伝えよ」。
     関白とはいうまでもなく秀吉に由来する言葉だが、ここでは徳川将軍を指している(日本の国王というほどの意味)。
     朝鮮としてはとりあえず釜山まで護送し、その後は対馬藩に引き渡すというのが既定方針だったので、いきなりそんなこといわれても困るというのが正直なところだった。それに第一、朝鮮使節が日本本土に上陸するには事前に対馬藩を通じて幕府に許可を求めなくてはならず、短時日では不可能であった。朝鮮政界の黒幕である彼がその程度の事も知らなかったとは思えないのだが・・・・・・。
     
     朝鮮側は懸命にグルマフンを説得し、結局対馬を経由して文書を将軍に送り、日本からは清へ礼状を差し出させるという条件で双方妥協した。
     
     こういったこともあり、漂流民一行の出発は結局七日に延期となった。
     正月五日、清使キチュンゲはグルマフンに命じ、わざわざ宿舎に漂流民を招いて送別の宴を催し、餞別を与えている。
     北京から長旅を共にしてきた漂流民へのせめてものはなむけであった。
     
     グルマフンは悪評だらけの人物だが、中にはこういう心温まる話もあったのである。
     
     そして、国田兵右衛門は、釜山の倭館(日本人居留地)、対馬を経由して、六月十六日に大坂に上陸、ようやく帰還を果たした。
     
     
     
     
     さて、朝鮮は日本に漂流民を送還してからはや9ヶ月が過ぎたが、日本からは礼状どころか何の音沙汰もない。清に対する立場上、かなり焦ったらしい。しかも、いろんなことで一々口を挟んでくる清(具体的にはグルマフン)がこのことでまたねちねちいじめてこないとも限らない。それで、当時の日本(対馬)との窓口だった釜山に「まだこないのか?何か聞いてないか?」と催促し、十月十六日、ようやく日本の使者がやってくるとの報告を受けて一安心している。
     
     だが、日本側の使者橘成税が対馬藩の家臣に過ぎなかったことで、朝鮮側は非常に落胆している。当時の記録によると朝鮮側は「橘成税は「対馬の尋常の将倭」であり、彼が大君(将軍)の命を奉じているというのも信用できない」と露骨に不満を漏らしている。清朝皇帝の勅諭を奉じて漂流民を優遇して送還した以上、幕府もその点を考えて自ら使者を派遣するべきなのに、よりによって陪臣の対馬藩家臣に使者の役割をゆだねるとは失礼千万ということらしい。
     
     幕府としては、これまでの慣例どおり朝鮮との交渉は全て対馬藩に丸投げということだったようだ。
     
     しかも、幕府が橘成税に持たせた礼状には清を「韃靼国」と記していたため、朝鮮はこの三文字の訂正を要求、訂正を拒絶する橘との間で大いにもめた。
     「韃靼」とは元来明がモンゴルを呼んだ呼称で、当時の日本では長城以北を漠然と指す言葉であり別段他意はなかったのだが、朝鮮にとってはそんなことでは済まされない問題だった。 
     対馬藩の「国書偽造事件」でも知られるように、元来朝鮮はこういった国号や王号の問題には非常に敏感であった。さらに、わずか十年ほど前に「大清」の国号と皇帝号を承認しなかったばかりに大軍に攻め込まれた朝鮮にとって、この「韃靼国」の三文字は清に再び口実を与えかねないものだった。
      
     この問題はしばらく論争が続いたものの、結局朝鮮側も日本側に礼状をつき返したわけでもないらしい。提出しなかったということは無いだろうから、そのまま出したか、改ざんしたかのいずれかだろう。
     
     以上、グルマフンと日本とのちょっとしたかかわりについて書いてみた。
     
     
     
     今回書いてみて、朝鮮は日本と清との間で難しい立場に置かれていたことがわかった。それは現代の東アジア情勢にも通じるものがあり、調べていて非常に興味深かった。
     
     
     
    参考文献(順不同)
    楊海英「清初朝鮮通事考-以古爾馬渾為中心-」
     (『清史論叢』2001年号 中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編 2001)
    園田一亀『韃靼漂流記』平凡社東洋文庫 1991
    (原著:園田一亀『韃靼漂流記の研究』南満洲鉄道株式会社鉄道総局庶務課 1939) 
     
    なお、対馬藩の国書偽造事件については、
     
    安延山 承福禅寺
    杉洋子の朝鮮通信使紀行  : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 
    にわかりやすい説明が載ってます。 
     
     
     

    July 19

    グルマフン(鄭命寿)(下)

     
     抵抗
     
     朝鮮側も全く無抵抗だったわけではない。

     崇德六年(朝鮮仁祖十七年 1639)に、人質として盛京(瀋陽)に住まわされていた朝鮮世子の随臣鄭雷卿はグルマフンの横暴に耐えかねて彼の不正を告発したが、十分な証拠を示すことができず、逆に誣告の罪に問われてしまった。

     世子はせめてもの温情で雷卿を服毒自殺させようとしたが、グルマフンは強硬に斬殺を主張。結局絞殺に落ち着いた。それでも処刑に立ち会ったグルマフンは朝鮮側の死刑執行人を口を極めて罵り、殴打したという。

     ここまで来るともう常軌を逸しているような気がする。  

     

     権力の背景

     
     では、たかだか一通訳に過ぎなかったはずのグルマフンがなぜここまで好き放題できたのだろうか。
     その背景としては無論清朝の強大な国力が存在したが、彼の横暴ぶりを説明するにはそれだけでは不十分である。
     
     清朝も朝鮮でのグルマフンらの度を過ぎた横暴ぶりを知れば、さすがに取り締まりに乗り出すのが常識というものだが、ドルゴンの生前にはそんな形跡すら見られない。いくらなんでも清朝(ドルゴン)がグルマフンの行いを全く知らないなどということはありえない。
      
     前述のように彼の庇護者であったイングルダイは八旗の鑲白旗(崇徳八年(1643)に鑲白旗と正白旗が入れ替わったのに伴い正白旗へ移籍)の有力者であったが、その鑲白旗(のち正白旗)の旗王はほかならぬドルゴンだった。イングルダイはドルゴンの信任が厚く、その腹心として清初の政局に重きを成した(『八旗通志(初集)』卷一百五十四 名臣列傳十四 英俄爾岱)
     
     そしてドルゴンは順治年間に「皇父摂政王」として、清の事実上の支配者となった。
     すなわちイングルダイそしてその部下グルマフンの権力の源は、ドルゴンの直臣としての身分であった。
      
       
     
     あくまで一つの推測ではあるが、彼らが朝鮮で得た利権、利益のうちかなりの部分は両白旗とそのボスであるドルゴンへと渡っていたのであろう。
     
     初期の清朝はいわば八旗各旗で構成される連合王国であった。八旗は相互に独立しており、ハン(皇帝)といえども正黄、鑲黄の二旗の支配者(旗王)にすぎない。
     そして、旗人官僚は皇帝-臣下という表向きの主従関係に属するのと同時に、伝統的な旗王-旗人というもう一つの主従関係にも属していた。清初の旗王たちはしばしばこの非公式な主従関係を利用して自旗出身の官僚に利権あさりをさせ、また彼ら共々利権を分配していた。
     たとえば、ある旗人が地方の役人として赴任、その任地で職権を利用して蓄財に励みつつ、そのうちの何割かを出身旗の主君である旗王に贈り、旗王は家臣である旗人に何かと便宜を図ってやるというようなケースが多々見られた。
     
     グルマフンの横暴ぶりを考えると、せっせと蓄財や権力争いに励む一方、上司のイングルダイ、そしてドルゴンへもしっかり付け届けをしていたと考えるのが自然な気がする。 
     
     
     
     
     失脚-奴隷から奴隷に-
     
     金や権力をほしいままにしたグルマフンだったが、その栄光もついに終わりを迎えるときが来た。
     
     順治八年(孝宗二年 1651)六月、清に赴いた李時昉は、グルマフンの様子について朝鮮王に「大いに憂惧の色有り」と報告している。
     
     それまで一貫してグルマフンの庇護者であったイングルダイはすでに三年前の順治五年になくなっており、しかも前年の十二月には摂政王ドルゴンも世を去ってしまった。
     この年巻き起こったドルゴン派への粛清の嵐がやがて彼にも及んでくるのはもはや時間の問題であった。
     
     翌順治九年に、彼の朝鮮での取り巻きであった通訳李馨長が処刑された。
     これまでほとんど沈黙を強いられてきた朝鮮側もグルマフンの勢力の衰えを察知し、徐々に包囲網を狭めていった。
     
     そして、順治十年(孝宗四年 1654)、清朝はついにグルマフンを処断した。
     内容は「グルマフンは罪が大きく、本来は絞首刑とすべきであるが、功績に免じて死刑は猶予し、財産没収の上奴隷とする」であり、直ちに朝鮮に伝えられた。
     
     朝鮮側はこれを受けて、彼の甥や親族の免職と処罰、殷山と義州に囲っていた妾の原籍送還、この二箇所の官吏で彼になびいていた者の免職などの許可を求め、刑部を通じて順治帝に上奏した。 
     
     順治十年十月十日付でこの上奏は裁可され、朝鮮の黒幕として絶大な勢力を誇ったグルマフンは再び奴隷となってしまった。
     朝鮮での彼の取り巻きも次々と失脚し、彼の築き上げた大勢力は瞬く間に消え去ってしまった。
     
     ただ朝鮮の怒りはなおも消えず、生きている以上また通訳に起用されるのではないかとの不安もあって、翌月やってきた清の使節にその点を尋ねている。そして清の使節は「万が一にもそんなことはない」と言明し、事実その通りとなった。
      
      彼のその後の消息は全くわかっていない。
     
     楊海英氏は『内国史院檔』の順治十二年二月二日の国子監の孔子廟祭祀の記事に現れる「グルマフン」に注目し、その後彼が国子監の教官に任ぜられた可能性があるとしているが、断定は避けている。
     
     
     
     
       なお『八旗滿洲氏族通譜』卷七十三 附載滿洲旗分内之高麗姓氏 丁氏の條には  
    古爾馬渾,正紅旗包衣人。世居恩山縣地方。國初來歸,原任通事官。其子白晉魁原任護軍校、孫莽董儀、皮占、倶原任護軍校 

     
     とあり、彼の子孫はある程度の官職に就くことはできたようだ。
     
     
     
    ※この記事では彼の旗属が正紅旗となっている。彼はドルゴン派に属してはいたものの、その鑲白、正白の両白旗に属していなかったか、あるいは彼は両白旗のいずれかに属してはいたが子孫が正紅旗に移ったため「正紅旗」として記載された可能性も考えられるが、史料の制約のためその点は明らかには出来ない。 
     
     なお「恩山縣」について楊海英氏は「殷山縣」の転訛ではないかとしている。
     
     
     
     
      終わりに
     
     グルマフンは奴婢として生まれ、後金に仕えて出世を重ね、通訳として外交を左右し、やがて朝鮮政界の黒幕として一大勢力を誇るまでになった。だが、最後はまた奴隷に落とされてしまった。
     彼の金や権力への執着は常軌を逸したところがあるが、これは奴隷として自分や家族を虐げた祖国への復讐だったかもしれない。
     
     歴史の変わり目にはえてしてこういう人物が時代を動かすようだ。
     
     
     
     あと、こんなエピソードもあります。
     
     
    参考文献(順不同)
    (史料)
    『八旗滿洲氏族通譜』遼瀋書社 1989
    『八旗通志』東北師範大学出版社 1985
     
     
    (著作・論文)

    楊海英「清初朝鮮通事考-以古爾馬渾為中心-」
     (『清史論叢』2001年号 中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編 2001)
    杜家驥「清初両白旗主多爾袞與多鐸換旗問題的考察」(『清史研究』1998年第3期)
    田中克己「通訳グルマフン」
     (『石濱先生古希記念東洋学論叢』関西大学石濱先生古希記念会 1958)
    阿南惟敬「睿親王多爾袞の領旗について」(『防衛大学校紀要』二十六 1973) 
        「八旗通志満洲管旗大臣年表「鑲白旗」考」(『防衛大学校紀要』二十八 1974)
     (阿南氏の両論文は共に 同著『清初軍事史論考』甲陽書房 1980 に再録) 
     

     
    (追記)
     朝鮮は歴史的に中国べったりとの印象が強いが、その裏では多くの苦しみや葛藤があった。このグルマフンのエピソードはほんの一例に過ぎない。
     
     そういった歴史的背景もあり、現在の韓国、朝鮮人も内心では中国に対しかなり複雑な思いを抱いている。北は完全に、南も漢字をほぼ全廃してハングルに一本化したのも、その大きな原因は「漢字は中国からの借り物」という民族意識である。そして、全世界で大勢力を誇る華僑も朝鮮半島では小さくなっている。
     そして、最近でも高句麗問題などでこういった民族意識が顔をのぞかせている。
     
     日本人は韓国・朝鮮というとすぐ「反日」を思い浮かべるが、実際はかなり複雑なようである。
     

    July 09

    グルマフン(鄭命寿)(上)

     グルマフン Gūlmahūn 古爾馬渾(本名:鄭命寿) 生没年不詳
     
     朝鮮平安道義州殷山の人。天命年間(1616~1626)に後金の捕虜となって以来、通訳・外交官として清・朝鮮間の交渉に活躍(というより「暗躍」)。清の虎の威を借る言動が目立ち、朝鮮の憎しみの的となった。
     
     
     出身
     
     グルマフンとはウサギまたは干支の卯を意味する満洲語で、当時の満洲人の間ではわりあいありふれた人名だったらしい(満洲人は一般に動物の名を好む)。
     
     そのため、清初の資料に現れる多くの「グルマフン」なる人名のうち誰が鄭命寿なのかが良くわからず、そのため彼の天聡年間(1627~1635)初期までの事跡は不明瞭のままである。
     
     朝鮮側の記録によれば、鄭命寿はもと朝鮮平安道殷山県の官奴で、のち後金の捕虜となったらしい。
     サルフの戦いで捕虜となったとの説もあるが推測の域を出ない。ただ遅くとも天命年間末期にはすでに後金に仕えていたようだ。
     
     
     汚れた通訳
     
     鄭命寿は清に仕えて漢語、満洲語の通訳となり、名もグルマフンと改めた。
     本文中では以下グルマフンに統一する。
     
     天聡七年(朝鮮仁祖十一年 1633)、彼は通事(通訳)として朝鮮に赴いているがこのときの地位はそれほど高いものではなかった。
     このとき彼とともに朝鮮に赴いたのが鑲白旗(のち正白旗)の巨頭イングルダイ(英俄爾岱)で、以後鄭命壽は彼の後ろ盾を得て出世することになる。
     
     崇德元年(仁祖十四年 1636)、後金(満洲族)のハン、ホンタイジは満蒙漢三族を包摂する大清皇帝として改めて即位した。清は皇帝即位を認めようとしない朝鮮に侵攻、これを服属させた。以後朝鮮は清から課せられた貢物、さらに戦争の際の物資、食糧と兵員の供出という多大な負担にあえぐこととなった
     
     翌崇德二年、朝鮮との和平交渉に赴いたイングルダイ・グルマフン一行は横暴な言動を繰り返した。特にグルマフンは通訳という立場を利用して、清との交渉に便宜を図る代わりに国王、王族その他から銀一千両の賄賂をふんだくっている。
     
     そして、この和議以降、この二人が朝鮮に来るたびごとに、多額の賄賂を支払うことが慣習化した。朝鮮としては、交渉役イングルダイと通訳グルマフンに賄賂を贈ることで、少しでも貢納を減らそうとしたのである。
     
     一例を挙げる。順治二年(仁祖二十三年 1645)、清朝は中原に進出したものの、まだ江南の穀倉地帯を掌握するには至っておらず、食糧危機が発生した。清は朝鮮に対し米20万石の供出を要求したが、朝鮮はグルマフンに賄賂(最低でも銀6000両は下らないという)を送り、便宜を図ってもらうようにした。これによりグルマフンは清側に口利きをして、供出高を10万石に半減させている。
     
     朝鮮としてはこれでも安い取引だったのかもしれないが。
     
      
     朝鮮政界の黒幕
      
     一方でグルマフンは清朝の権力を背景に、朝鮮での清朝の代理人として君臨。内政に露骨に干渉するようになった。
     
     朝鮮仁祖十九年(清崇德六年 1641)、グルマフンは対清強硬派の金尚憲を拘留し、清へ移送。彼は四年後(順治二年 1645)にようやく本国に帰還している。また、その他の対清強硬派とみなされた大臣に対しても解職や左遷を要求し、清には逆らえない朝鮮はただ黙って従うのみだった。
      
     
     そして、清の実力を背景に、朝鮮に対し自分に高い官位を与えさせたり、国内に残っている一族郎党を高位高官につけさせ、次第に政界の黒幕的存在となっていく。
     
     グルマフンは仁祖十七年(清崇德四年 1639)には簽知中枢府事(正三品)、さらに同知中枢府事(従二品)を授けられ、同二十年(崇德七年 1642)には最高位の領中枢府事(正一品)の官位を与えられている。両班でもない官奴(奴婢)出身者がこのような官職を得ることは通常では絶対考えられない。つまり一種の賄賂である。
     
     彼の母も仁祖十九年(清崇德六年 1641)に貞夫人の位を追贈。彼の妻の兄奉永雲ももと官奴であったが、同二十年には寧遠郡守、さらにはグルマフンの意向により彼の故郷の殷川郡守に任ぜられた。
     
     甥の李玉錬も同二十年に文化県令に任じられ、三年後の仁祖二十三年(順治二年 1645)には順川郡守に任じられた。同じ年、グルマフンは朝鮮に強制してこの甥に通政大夫(正三品)の位を与えさせた。李玉練はこのときわずか二十三歳。しかも伯父の権力をバックに同僚を侮辱し、我が物顔に振舞ったという。
     
      さらには、仁祖二十一年には、グルマフンの故郷であるという理由だけで、殷山県を殷山府に昇格させている。
     朝鮮側は初め躊躇したが、グルマフンが怒声を発して脅しつけたので、従わざるを得なかった。
     
     
     
     
     こうして平安道の多くの官職がグルマフンの一族や取り巻きに独占される結果となった。
     朝鮮国王孝宗は「清人はどうしてわが国事を尽く知っているのだ?清からあれこれ責められるのはすべて鄭命寿(グルマフン)が裏で操っているのだ」と嘆き、領議政(宰相)鄭太和は「西路(平安道)の人は鄭命寿と親密なものがすこぶる多く、わが国の微細な事に至るまで知らないことはありません」と語っている。
     
     グルマフンは朝鮮国内に恐るべき情報網を構築し、清朝と自らの利益を図ったのである。
     
       
     またグルマフンは朝鮮宮廷内でのコネ作りにも怠り無く、 宰相の李敏求は彼の妻の妹を娶り、その権力を背景に国政を左右した。のちに「古今天下で、人臣として隣賊と結んで君主を制したものに、敏求に及ぶものがいるだろうか」とまで言われたほどであった。いわば虎の威を借る狐の、そのまた威を借る狐とも言うべき人物だった。
     
     そのほかにもグルマフンと好を通じた大臣は数多く、かくして一介の奴婢だった彼は朝鮮における政界の黒幕、事実上の支配者とも言える存在になりおおせたのであった。
     
      
     次回は、一人の通訳に過ぎなかったグルマフンがなぜここまで好き放題できたのかについて、詳しく掘り下げてみたいと思う。
     
    (つづく)
     

    June 21

    岳鍾琪(下)

     失脚-ジューンガル-
     雍正七年(1729)、雍正帝はジューンガル部討伐を決意。三月、岳鍾琪を寧遠大将軍、領侍衛内大臣フルダン(傅爾丹)を靖辺大将軍に任命し、六月、それぞれ西(トゥルファン方面)と北(モンゴル高原)の二路に分かれて進軍を開始。兵力はそれぞれ約二万三千、二万五千であった。
     そしてこのフルダンという人物が彼の運命を大きく左右することになる。
     
     フルダンは清建国の功臣フィオンドン(費英東)の曾孫、満洲八大姓の筆頭グワルギヤ(瓜爾佳)の出身という名門で、領侍衛内大臣、黒龍江将軍など要職を歴任。加えて立派な体格と容姿を持ち、武将としての風格を備えていた。いわば満洲族のサラブレッドであった。
     
     岳鍾琪と彼がいわば同格として競い合わされることになったのは、雍正帝が漢人の岳鍾琪の名声が大きくなりすぎることを危惧したためといわれる。
     
     その後二年間は互いに対峙したまま過ぎたが、雍正九年(1731)六月、捕虜の偽りの情報を信じて敵中に深入りしすぎたフルダンはホトンノールの地で数万の敵の包囲を受け大敗。七月に前線基地のコブド(科布多)に帰り着いたのはわずか二千あまりという惨敗であった。
     このとき、岳鍾琪は別働隊としてウルムチを襲撃していたが、フルダンの敗北のとばっちりを受けた形となり、以後ひたすら雍正帝の不興を買いつづけることとなった。  
     
     翌十年(1732)に康煕帝の娘婿ツェリン(策凌)がエルデニジョーでジューンガル軍を大いに破った時も敗走する敵を効果的にたたくことができず、また賞罰や命令が一貫しない、兵士を愛さないなどの理由でついに将軍を解職されることとなった。
     
     その後さらに遠征に絡む疑獄事件で弾劾を受け、全ての官爵を奪われ、ついには彼と前後して解任されたフルダン共々死刑を論じられることとなってしまった。
     
    (雍正帝に仕える人間は本当に大変だ)
     
     そして復活-金川の戦い-
     こうして彼は年羹堯と同じく大抜擢と失脚、死刑という運命をたどりかけたが、帝はそこで一旦判断を保留した。そうこうしているうちに、なんと雍正帝本人が崩御。死刑を免れることとなり、乾隆二年(1737)四月これまたフルダン共々罪を許された(なお『清史稿』傅爾丹伝では乾隆四年となっている) 。
     
     
     
      乾隆十二年(1747)、大金川土司サラベン(莎羅奔)と小金川土司ツェワン(沢旺)との間に戦争が起こった。金川(現在の四川省阿[土貝]蔵族羌族自治州)は、四川省の西北に位置し、チベット高原の東端に当たる地区で、古来チベット族や羌族が多く居住しており、清代には大金川・小金川の二つの峡谷によって区分されていた。
     
     
     清は張広泗を川陝総督に任じ、さらに翌十三年、大学士ネチン(訥親)を派遣して、大金川を制圧させようとするが、険しい地形と各所に散在する石碉(せきちょう 石造の望楼状の砦)の攻略に苦しみ敗北。石碉の内部には水や食料・武器弾薬が蓄えられ、清朝軍が近づくと火砲や弓矢の猛射をあびせて撃退した。
     両名は敗戦の責を負って自殺。
     
      そこで起用されたのがまたまたフルダンと岳鍾琪だった。
     
     フルダンは川陝総督、岳鍾琪はその配下の四川提督として出征。岳鍾琪このときすでに六十三歳だった。
     彼は、フルダンの命でサラベンへの降伏勧告に赴き、見事成功。サラベンが降伏勧告を受け入れる形で和平協定を結び、その結果何とか清朝側の面子を保つ形となった。
     
     なお『嘯亭雑録』卷四 金川之戦の條や『清史稿』岳鍾琪伝などでは彼らはロブザンダンジンの反乱以来の古い友人同士であったので、サラベンも喜んで降伏したとされている。
     
     それらの内容を要約すると、
      

     わずかな供回りでサラベンの根城に着いた岳鍾琪いわく「俺を覚えてるか?」、サラベンが「おお、岳どのではありませんか」

     岳鍾琪がロブザンダンジンの反乱鎮圧に当たっていた頃に、サラベンは清朝側について従軍しており、このとき二人は知り合った。彼は岳鍾琪にいろいろ恩義を感じていた。

     そこでサラベンは喜んで降伏した。

     
      だが、荘吉発氏の研究によるとロブザンダンジンの反乱の際に従軍したサラベンなる人物と大金川のサラベンは別人であり、したがって前述の史料にあるような麗しい友情というものではなかったらしい。実際は金川の攻略に苦しんだ乾隆帝は水面下で撤兵の機会を探っており、岳鍾琪はその意図に基づきサラベンと交渉にあたったようである。サラベンとしても、緒戦で清軍を大いに苦しめはしたものの数では依然絶対不利であるから、ここらが潮時と考えたのだろう。
     
     岳鍾琪は前述のようにロブザンダンジンの反乱鎮圧や川陝総督としてチベット土司の改土帰流を推し進めるなど、青海、四川のチベット族事情に詳しかった。交渉役としては彼以上の適任者はいなかっただろう。
     
     その後サラベンは再び清朝に叛くが、それはまた別の機会に
     
     彼はフルダンとともに凱旋、太子少保の位と三等公(ジューンガルの失敗で一度剥奪されている)を授けられた。
    彼はその後も四川のチベット土司の鎮定や反乱鎮圧に従事。乾隆十九年(1754)、重慶の民乱を鎮圧したのち死去。栄光に包まれた最期だった。
     
     終わりに
     岳鍾琪は康煕、雍正、乾隆の三代に仕え、青海、チベット、ジューンガルで活躍。また、四川では改土帰流を推し進めるなど、辺境の安定化に貢献。とくに青海の平定、そして改土帰流は現代にいたるまで中国西部の歴史に大きな影響を与えている。
     
     
     
     ある意味ご先祖様(?!)の岳飛よりも、歴史的には重要かもしれない。
     
     
     
     
    参考文献・サイト(順不同)
    (史料)
    『清史稿』列傳 卷二百九十六 列傳八十三 岳鍾琪
    同        卷二百九十七 列傳八十四 傅爾丹

    中央研究院 漢籍電子文獻 二十五史 『清史稿』2006.6.21アクセス)

    http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

     
    『嘯亭雜録』昭槤 撰  清代史料筆記叢刊 中華書局 1980
     
    (論文・著作)
    莊吉發『清高宗十全武功研究』中華書局 1987(初版 臺灣故宮叢刊甲種廿六 1982)
    石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174 2000 
    千葉宗雄『カラ・ブーラン-黒い砂嵐-第二部 天山にはばたく』国書刊行会 1986
    宮崎市定『雍正帝-中国の独裁君主-』(『宮崎市定全集』14 岩波書店 1991)
    宮脇淳子『最後の遊牧帝国-ジューンガル部の興亡-』講談社選書メチエ41 1995
    May 22

    岳鍾琪(中)

    岳飛の子孫?
     このように西北で大兵を握ることとなった彼の周囲では、やがて彼が岳飛の子孫であるといううわさが立ちはじめる。そもそも姓が岳であるし、名将ぶりも大したものである。
     
     (しかしながら、彼が本当に岳飛の子孫であるのか、また本人がどこまでそれを意識していたのかはよくわからない)
     
     ただ、彼が単に「岳飛の再来」と言われているうちはまだよかったのだが、そのうちに噂がエスカレートし始めた。
     
     岳飛は女真族の金と戦った武将である。清は女真族の後身たる満洲族が立てた王朝である。そして岳飛の子孫である岳鍾琪は先祖と同じく女真(満洲) 族を打倒しようとしている。
     
     このような噂がまことしやかにささやかれるようになり、やがて雍正帝の耳にも入るようになった。おそらく、スピード出世を果たした彼への嫉妬やねたみが引き起こした噂であったろう。
     雍正帝はむろん本気にはしなかったが、雍正六年(1728)のある日、ある男がそれを頭から信じ込んでしまったことで話は思わぬ方向へころがることとなった。
     
     その男の名は曾静。在野の学者だったのだが、明の遺臣呂留良の反満思想にすっかりのめりこんでしまい、日々満洲族打倒を念じつつ生活していた。そこへ「岳鍾琪は岳飛の子孫」という噂が舞い込んだものだからすっかり舞い上がってしまったらしい。
     そしてなんと弟子の張煕を岳鍾琪の所に派遣して、「あなたは岳飛の子孫なのだから立ち上がって清を倒して漢族の国を取り戻すべきだ」と言わせたのだった。
     
     張煕を迎えた岳鍾琪は話を聞いてびっくり仰天。すぐに彼をひっとらえて北京へと護送させ、同時に曾静についても上奏した。彼にとっては非常に迷惑な話だったろう。
     雍正帝は曾静に論戦を挑み、自己批判をさせ、彼の罪を許して釈放。論戦の結果は『大義覚明録』として出版させたがここでは詳しく触れない。
     
     岳鍾琪はこの迅速な処置によって、さらに帝の信頼を勝ち得ることになった。もし少しでもためらいを見せていれば、数年前の年羹堯と同じ運命をたどったであろう。
     
    (つづく)
     
    May 17

    岳鍾琪(上)

    岳鍾琪(がく しょうき Yue4 Zhong1qi2)
    康熙二十五年(1686)~乾隆十九年(1754)
    字 東美 四川成都の人 
     
     清の武将。宋の岳飛の子孫とも言われる(それで色々ややこしいことにもなった)。康煕、雍正、乾隆の三代に仕え、ジューンガル(準噶爾)、青海、金川(四川省西部)の討伐に活躍。四川、陝西の総督として西部辺境の防衛に任じ、当時旗人ではない漢人官僚で満洲人将兵を指揮下において立派に統率できたのは彼一人であったという。
     
     その出自、出世
     武将の家に生まれ、父は三藩の乱やジューンガル部との戦いで活躍し、康煕三十五年(1696)の康熙帝モンゴル親征にも従軍している。彼も元々文官として出仕するが、のちに志願して武官となっている。
     
     康煕五十七年(1718)、ジューンガル部のツェワン・アラブタン(策妄阿喇布坦)がチベットに進攻すると、清は即座に派兵、撫遠大将軍胤禔(示是 てい ti2)の指揮の下ジューンガル軍と親ジューンガル派をチベットから撃退した。このとき彼は年羹堯らとともに従軍し、先鋒として活躍。六十年(1721)、その功により四川提督(緑営の総指揮官)に任ぜられた。
     
     雍正元年(1723)夏、青海ホシュート(和碩特)部のロブザン・ダンジン(羅卜藏丹津)の反乱が発生すると、胤禔(示是)に代わり青海方面の総指揮を執ることになった年羹堯に請われて彼を補佐した。その年十一月から翌二年春にかけ、年羹堯は青海を文字通り縦横無尽に駆け回り、反乱を平定。
     岳鍾琪は二月八日から二十二日までの十五日間に青海南路方面からロブザン・ダンジンの族衆を粉砕し、ロブザンの母や多数のタイジ(貴族)を捕らえ、「出師十五日, 斬八萬餘級」という大功を立てた。ロブザンはジューンガル部へ亡命。
     以後、青海は清朝の直接支配の下に置かれることとなった。
     
     彼は雍正三年(1725)に甘粛巡撫となり、同年四月に年羹堯が謀反の疑いで兵権を解かれると川陝総督として現地の清軍の指揮権をそのまま受け継いだ。 
     こうして彼は甘粛、陝西、四川三省の軍事、行政を掌握することとなり、その後は、四川のチベット土司の改土帰流※を推進し、その一方でジューンガルの勢力圏に接する陝西、甘粛の守りを着々と固めていった。
     
     三藩や清末の北洋軍を除き、清代の漢人武将でこれほどの大兵力を従えた例は他に見当たらない。
     (年羹尭は漢軍旗人、いわば満洲化した漢人。満洲語もペラペラ)
     
    (つづく)

    ※改土帰流
     明、清朝の西南少数民族の内地化政策。

     中国の歴代王朝は西南地方の諸民族の首長を土司、土官に任じて広汎な自治を認めていたが、明清時代に入ると内地に近い地方の土司・土官を廃して中央から派遣された官吏(流官)に交代させ、州県制によって内地同様に統治する政策を進めていった。これを改土帰流とよび、ことに雍正年間以降より活発に進められるようになった。

     その結果、漢人による政治的・経済的圧迫が助長されて諸民族の反乱を惹起したが、政策自体は民国まで継承されて結局未完成のまま終わった。

     
     
    February 02

    ハイランチャ(海蘭察)(下)

     乾隆四十一年(1776)、ハイランチャは金川平定の功により、一等超勇侯に封ぜられ、次いで四十三年に武官の最高位たる領侍衛内大臣(近衛師団長)に任ぜられる。
     
     乾隆四十四年(1781)、甘粛のイスラム教徒の叛乱を鎮圧。同四十六年再び甘粛で叛乱が起こったので、参賛大臣として尚書フカンガ(福康安)とともにこれを鎮圧。以後、しばしばフカンガとコンビを組むこととなる。
     
     乾隆五十一年(1786)十一月、台湾の林爽文が叛乱を起こし、彰化、諸羅(嘉義)を陥れた。この叛乱には数十万人が呼応し、林は台湾西部のほぼ全域を支配下に収めた。
     翌年7月、ハイランチャはフカンガの指揮の下、海を渡り、鹿仔港に上陸、五十三年、林爽文を捕らえ、乱を平定した。
     
     次いで、乾隆五十六年(1791)、グルカ(ネパール)が西チベットに侵入したので、三たびフカンガの指揮下でチベットに赴き、翌五十七年グルカ遠征を開始。穀物の生産高が極めて少ないチベットでは軍勢の補給は困難を極め、峻険な地形、要衝に設けられた砦、さらに有名なグルカ兵の勇戦により大損害を出しながらも、火縄銃や大砲の火力で敵を圧倒し、グルカの首都カトマンズに迫った。グルカはイギリス東インド会社に支援を求めたが拒否され、清朝に和議を提案。功により一等公に任ぜられた。
     
     
     この戦いでも、ハイランチャは少数精鋭の索倫(ソロン)兵を率い、峻険な地形を逆手に取った迂回機動を好んで用い、フカンガが敵を軽んじて大損害を出す(羽扇を片手に、孔明気取りで指揮を取っていたというエピソードもある)一方で、しばしばグルカ軍を敗走させている。
     
     乾隆五十七年(1793)死去。
     まさに戦いに明け暮れた一生だった。
     
    参考文献・サイト(順不同)
    (史料)
    『清史稿』巻三百三十一  列傳一百十八 海蘭察

    嘉绒之窓-四川西部阿坝藏族羌族民俗文化及旅游信息網

    http://www.jrong.com/index.htm

    (論文・著作)

    荘吉発『清高宗十全武功研究』 中華書局 1987

    鄂温克族簡史编写組『鄂温克族簡史』内蒙古人民出版社 1983

     

     

     

     

    December 04

    ハイランチャ(海蘭察) (上)

    ハイランチャ(Hairanca、海蘭察)
    ?~乾隆五十八年(1793)
    ソロン(索倫)  ドラール(多拉爾 dolar)氏、満洲鑲黃旗人
     
     乾隆年間に活躍したエヴェンキ(鄂溫克)族出身の将軍。乾隆二十年(1755)のジューンガル平定戦に一兵卒として従軍して以来、多くの戦争に参加し功績を重ね、ついには将軍にまで成り上がった実戦派のたたき上げの武将。
     
    ソロン(索倫)兵と八旗
     
     エヴェンキ族とは、 昔からシベリア、大興安嶺の森林地帯に分布し、狩猟生活を送っていた民族で、清代にはソロン(索倫)と呼ばれていた。清代以降、清領内のエヴェンキ族の多くは現在の中国・内蒙古自治区フルンバイル草原へとに移され、狩猟生活から次第に遊牧生活へと移行していった(現在、中国領内のエヴェンキ族の総人口は約24,000人)。
      
     彼らは、康煕年間から対ロシア・ジューンガル防衛のため、八旗制度の中に組み込まれるようになり、その剽悍さと巧みな戦いぶりによって、次第に清朝軍の重要な戦力となっていった。
     雍正年間以降、ソロン兵は清朝の行うあらゆる戦争に従軍し、多くの功績を打ち立てた。ジューンガル、中央アジア、ビルマ、四川、ベトナム、ネパールなどなど、十八世紀以降彼らが現れなかった戦場はなかった。彼らは満洲八旗がすでに失いつつあった勇敢さと野性的戦闘力により、かなり重宝されたらしい。
     だが、そのために多くのエヴェンキの成年男子が文字通り根こそぎ動員され、乾隆年間後期には人口が激減してしまったという。
     
     ハイランチャも、そうしたエヴェンキ族の一牧民として生活していたが、乾隆二十年(1755)のジューンガル戦に徴兵されたことで、彼の人生は大きく動き出す。
     
      
    ハイランチャ登場―ジューンガル・ビルマ―
     
     ハイランチャは、「ソロン兵」の一人として、乾隆二十年のジューンガル戦に従軍。身分は「索倫馬甲」、すなわち一兵卒だったが、タルバガタイで、初め清に協力して後ふたたび叛いたホイト(輝特)部の有力者バヤール(巴雅爾)を生け捕りにするという大手柄を立て、一躍侍衛(近衛兵)に昇進。騎都尉兼雲騎尉の世職(爵位)を与えられ、紫光閣に肖像画が飾られ、その功績が讃えられた。
     
     乾隆三十二年(1767)~三十三年、ビルマでの戦いでこれまた手柄を立て、鑲黄旗蒙古副都統、鑲白旗蒙古副都統に累進。ビルマでは、高温多湿の気候や疫病、険しい地形、さらにはビルマ軍のゲリラ戦術に悩まされ、全体的には敗戦ともいえる惨憺たる状況であったが、海蘭察は小回りの利かない大部隊ではなく、少数の精鋭部隊をたくみに運用し、奇襲戦術で対抗。ここでも戦術の才を見せる。
     
    以後、小部隊による奇襲戦法は彼の得意技となっていく。
     
     
    金川の苦闘
     
     金川(ギャロン  現在の四川省阿[土貝]蔵族羌族自治州)は、四川省の西北に位置し、チベット高原の東端に当たる地区で、古来チベット族や羌族が多く居住しており、清代には大金川・小金川の二つの峡谷によって区分されていた
     
      乾隆十二年(1747)、大金川土司サラベン(莎羅奔)と小金川土司ツェワン(沢旺)との間に戦争が起こり、清は張広泗を川陝総督に任じ、さらに翌十三年、大学士ネチン(訥親)を派遣して、大金川を制圧させようとするが、険しい地形と各所に散在する石碉(せきちょう 石造の望楼状の砦 下図)の攻略に苦しみ敗北。石碉の内部には水や食料・銃砲と弾薬が蓄えられ、清朝軍が近づくと火砲や弓矢による猛射をあびせて撃退した。
     両名は敗戦の責を負って自殺。乾隆十四年(1749)、サラベンの投降を受け入れる形でいったん停戦。
     
     その後乾隆三十六年(1771)に、大金川と小金川土司の間に同盟が成立し、再び清に反旗を翻すようになった。清は温福に両金川の制圧を命じ、数万の軍を動員。翌年には小金川を下した。ハイランチャは温福の部下としてこの戦いに従軍していた。
     
     だが、乾隆三十八年(1773)六月、再び小金川が叛き、大部隊を擁する清軍は木果木の戦いにて、奇襲・ゲリラ戦術にはまって壊滅的打撃を受け、温福以下一万人以上にも上る大量の死傷者を出した。清軍の指揮系統は大混乱に陥ったが、ハイランチャは敗残兵をまとめて撤退に成功。全軍の崩壊を阻止した。
     
     
     この失敗に懲りた清朝は、八旗の火器専門部隊である火器営を派遣して、火力の強化を図る一方、小回りの利かない大部隊中心の運用を改め、小部隊による奇襲戦術を採用するようになった。
     ハイランチャはこうした清朝の新戦術の中心となって、しばしば少数精鋭部隊を率いて出動した。彼は、本来攻撃側に不利である山間部という条件を逆手にとって、伏兵や夜襲、迂回戦術を多用し、次々と石碉を陥落させていった。
     
     そして、同年十一月に小金川を平定。乾隆四十一年(1776)、サラベンとその孫ソノム(索諾木)を降伏させ、ようやく大金川の平定にこぎつけている。
    (つづく) 
     
    長くなったので、前後半に分けます。
     
    写真:金川石碉:嘉绒之窗 高原明珠马尔康  より
     
     
     
     
     
     
     
    November 25

    呉三桂(下)

    転戦
     
     呉三桂は清朝に投降した直後の順治元年(1644)四月、平西王に封じられ、翌二年錦州に鎮した。同五年(1648)陝西の漢中に移鎮し、陝西方面の流賊(李自成軍残党)の討伐に当たった。順治九年(1652)からは四川方面にて孫可望・李定国ら張献忠残党の掃討を行った。十四年(1657)には平西大将軍に任じられ、李定国や南明(明の亡命政権)の桂王朱由榔(永暦帝)を追って四川・貴州・雲南を転戦、十六年(1659)に雲南に移鎮。そのまま雲南に封じられる。そして康煕元年(1662)に、ビルマまで逃げた桂王を捕らえ、これを昆明で殺した。
     
     南明政権の最後の生き残りである桂王の死により明王朝は完全に滅亡し、清は呉三桂に平西親王の爵位を賜うことで報いた。
     
    三藩の権勢  
     
     呉三桂に限らず、清は中国内地侵入にあたり尚可喜、耿仲明ら漢人武将を重用している。清朝は中国平定にあたって彼らの軍事力を存分に利用した。彼らはその功績および、強い軍事力をもつ彼らの懐柔のため、それぞれ独自の藩を領有する事を認められていた。
     そして呉三桂の平西藩(雲南・貴州)、尚可喜の平南藩(広東)、耿仲明の靖南藩(福建)が成立した。そして、その中でも最も大きな勢力を得たのが呉三桂である。
     
     呉三桂の「平西王」(康煕元年からは「平西親王」)という爵位が当時どれぐらいの地位であったのかについて、神田信夫氏は服飾・俸禄・宮廷での席次といった角度から検討し、皇族中最も有力で皇位継承権を持つ「和碩親王」に次ぐ極めて高い待遇を受けていたことを明らかにしている。つまり、皇位継承権を持たない点を除き、ほぼ皇族に準ずる待遇を受けていたのである。
     もちろんこれは呉三桂の功績に対する褒賞であり、同時に彼の持つ強大な軍事力・経済力に対する懐柔処置であったことは言うまでもない。
     
     本来、各藩王は遼東から伴ってきた子飼いの部隊(呉三桂の「五十三佐領」など)と緑営の軍事指揮権を持つに過ぎず、制度上は地方行政には何の権限も有しなかった。そして、当時も中央政府から総督・巡撫以下各地方官員が現地に派遣されていた。
     
    (三藩の南方進駐当初は、制度上でも現地官吏の任免権が認められていたが、あくまで戦時における非常大権的なもので、情勢の安定化とともに撤廃)
     
     だが、呉三桂を初めとする藩王は、その実力と人脈を利用して、依然官吏の人事に大きな影響力を行使しており、ことに平西藩での地方官任命に関しては呉三桂の題補(推薦)がほぼそのまま承認されていた。
     
     また、呉三桂の平西藩は、チベットとの茶馬貿易や鉱山開発、銅銭私鋳、商業税や通行税などの私税徴収で大いに利益をあげ、他の二藩も平西藩と同じく私税の徴収や遷界令に乗じた密貿易で大いに潤っていたらしい。さらには、中央から巨額の軍事費まで支給され、その費用は大きな財政負担となって清朝の肩にのしかかっていた。 
     
     このように、三藩は藩内の実質的な軍事指揮権・徴税権・官吏任用権を掌握しており、あたかも独立王国と化していた。
     
     
     
    ※三藩は明滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩と読んで区別するが、普通に三藩と言った場合は概ね呉三桂たち「後三藩」のほうを指す。
     
     
    三藩の乱
     
     さて、時の皇帝康熙帝は平素からこの三藩の存在を疎ましく思っており、中央集権体制を確立するために三藩の廃止を目論んでいた。

     康熙十二年(1673)、尚可喜が息子の尚之信との不和を理由に自らの隠居と尚之信への継承を願い出た。これに対して、康熙帝は藩自体を廃止すると返答した。これに驚いた呉三桂と耿精忠(耿仲明の孫)も、立場上やむをえず自分達も引退と藩の廃止を願い出た。本心はもちろん慰留されることを願ってである。

     朝廷内では藩の廃止を強行すれば呉三桂たちが反乱を起こすとの反対意見が根強かったが、康熙帝はミンジュ(明珠)らの少数意見を採用して廃止を強行する事に決めた。康煕帝としては、三藩を放置すればいずれは反乱を起こすのは明らかで、どうせ反乱が起こるのなら相手が準備不足の早いうちがいいという考えだったのである。

    (結果的には鎮圧に八年もの歳月と多大の犠牲とを要したのだが・・・・・・)

     

     

     予想通り呉三桂は自ら「天下都招討兵馬大元帥」と称して清に対する反乱を起こした。

     康煕十三年(1674)、呉三桂は湖南を占領、ここから軍を東西に分けて西は四川省陝西省へ、東は広西・福建へ進軍させ、同時に尚可喜・耿精忠に対して呼応の誘いをかけた。耿精忠は誘いに乗って反乱を起こし、尚之信はあくまで清に忠誠を尽くす父を幽閉して反乱に参加した。これに加えて台湾から鄭経鄭成功の息子)も呼応し、一時は長江以南は全て三藩の手に落ちた。

     さらに陝西提督王輔臣も呉三桂側に寝返り、翌年には内モンゴルのブルニもこれに乗じて反乱を起こした。

     

     だが、呉三桂の決起は当初から失敗の要因をはらんでいたと言える。

     まず、呉三桂は、湖北・湖南を制圧した段階で一気に北上して大運河や北京を衝くことをせず、江南の鎮定に力を注いだが、そのことが結果的には清朝に態勢を立て直す時間を与えることとなってしまった。 

     次に、呉三桂たち三人と台湾の鄭経は全て同格であり、指揮権の統一が為されていなかったため、戦略の不一致が目立ち、そのため清朝軍の各個撃破を許すことになった。

     第三に、呉三桂たちは満洲族を滅ぼして漢族の世を取り戻すとの大義名分を掲げていたが、その漢族王朝の明の亡命政権を南に追い詰めて滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であり、それゆえ明の遺民たちの支持を集めることもできなかった。

     

     清朝はまず康煕十四年(1675)に内モンゴルの反乱を片付け、翌十五年陝西を制圧。同年、鄭経耿精忠の勢力範囲をめぐる争いに乗じて福建の靖南藩を投降させ、次いで翌十六年(1677)広東の平南藩をも投降させ、着々と地歩を固めていった。

     

    皇帝即位

     康煕十七年(1678)、窮地に立った呉三桂は、湖南の衡州にて皇帝に即位、国号を「大周」、元号を「昭武」としたが、退勢を覆すことはできず、同年秋に病死。 

      

      彼の死後、三桂の孫、呉世璠[王番]が皇帝の位を継いだが、じわじわと雲南へと追い詰められ、康煕二十年(1681)昆明の陥落とともに自殺。乱は終結した。世璠の屍は清によって暴かれ、首は北京にてさらしものになった。また、彼の一族や部下たちも次々と処刑されていった。
     
     そして呉三桂の遺骨も清朝軍の執拗な捜索の末発見され、北京へと送られたが、本物の遺骨は別の場所にひそかに葬られたとの説もある。
      
     これと相前後して、平南王の尚之信、靖南王の耿精忠の藩も取り潰され、康煕二十二年(1683)に台湾の鄭氏政権も清に投降、ここに清の中央集権体制が完成した。 
     
     
     
     
    参考文献・サイト(順不同)
    (史料)
    『清史稿』巻四百七十四  列傳二百六十一  吳三桂
     
    『嘯亭雜録』昭槤 撰  清代史料筆記叢刊 中華書局 1980
    『呉偉業―呉梅村―』福本雅一 注 中国詩人選集二集12 岩波書店 1962 
     
    (論文・著作)
    李治亭『呉三桂大伝』江蘇教育出版社 2005
    石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ174 2000 
    竺沙雅章 監修 谷口規矩雄 責任編集『アジアの歴史と文化』4 中国史―近世Ⅱ
    同朋社出版 1994
     
    神田信夫「平西王呉三桂の研究」
    (明治大学文学部研究報告東洋史第二冊 明治大学文学部文学研究所 1952)
    神田信夫「清初三藩の富強の一側面―平南藩を中心として―」(『駿台史学』第五号 1955)
    (神田氏の両論文は共に 『清朝史論考』山川出版社 2005 に収録)
     
    『Wikipedia ウィキペディア』呉三桂、三藩の乱の各関連項目 
     
     
    November 16

    呉三桂(上)

    呉三桂(ご さんけい wu2 san1 gui4)

    明万暦四十年(1612)~清康煕十七年(1678)

    字、長白(『清史稿』では「長伯」、一説に月所・碩甫)、遼東の人。明末清初の武将。

     

     明崇禎十七年(清順治元年、1644)山海関を守っていたが、李自成が北京を占領すると、清軍を関内に引き入れ、李自成軍を打ち破り、平西王に封ぜられた。その後雲南・貴州の地の軍事指揮権を一任され、「三藩」の一角として大きな勢力を誇る。のち、清朝にも叛いたが(三藩の乱)、病死。

     

     

     

    その出自

      彼の祖先については『清史稿』では「江南高郵人,籍遼東」としているが、各史料間の異同がはなはだしく、結局彼の父、呉襄以前の事は不明確なままである。さらに彼の出生地ですらも史料により異なっている。なお、李治亭氏はその著『呉三桂大伝』で出生地を広寧中後所(現 遼寧省綏中)とされている。

     

     父、呉襄は明天啓二年(1621)武挙の進士となり、その後トントン拍子に出世して、崇禎年間には錦州総兵に至っている。

     子、三桂もまた順調に出世を重ね、16,7歳ごろ武挙に合格、以後多くの実戦を経験。

     

     その出世の背景にあったのが、当時、遼西の名族であった祖氏との関係である。

     祖氏一族は代々遼東・遼西に住み、軍功を重ね、この頃には広大な農地、さらには多くの私兵をも有する一大勢力となっていた。その当主は祖大壽で、その威勢には明朝ですらも一目置かざるを得なかった。

     呉襄はその妹を娶り、強力な後ろ盾を得ることとなった(彼女は継母であるようだ)。以後呉父子はこの閨閥を背景に勢力を拡大し、祖氏と同じく多くの農地を占有し、「家丁」と呼ばれる私兵集団を養い、一方では中央政界へのコネ作りにも余念がなかった。  

     (すなわち祖太壽は呉襄にとっては義兄弟、三桂にとっては母方の叔父に当たることになる)   

     そして、明末には祖・呉氏は、遼西回廊における一大軍閥へと成長していたのである。  

     崇禎十二年(1638)呉三桂は寧遠総兵(現在の師団長クラス)に任ぜられた。このときわずか二十七歳、当時としては異例のスピード出世であった。これには、彼自身の才能もさることながら、祖・呉軍閥の支援と中央政界のコネクションとが有利に働いたためだろう。    

     以後、彼は多くの戦いで奮戦し、手柄を重ね続けることとなる。

     

     

    清への投降 ―「衝冠一怒為紅顏」 について―

     

     崇禎十四年(清崇徳六年、1641)、松山・錦州の戦いで明は清に惨敗、松山を守っていた薊遼総督洪承疇、さらには錦州の祖大壽も清へと投降した。

     呉三桂は、部隊を率いて撤退に成功、寧遠城に立てこもった。このとき、ホンタイジ(皇太極)は自ら勅書を下して降伏勧告を行い、さらには先に投降した祖大壽を通じて投降を勧めているが、呉三桂はこれら度重なる勧告を全て黙殺している。

     

     崇禎十七年(清順治元年、1644)李自成が北京に迫ると、彼は平西伯に任じられ、李自成討伐に向かうが、その途中で北京の占領と皇帝の自殺を知り、山海関に引き返す。この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、いわば人質となっていた。父からの勧告を受けた呉三桂は一時は李自成への投降を決めていたが、急に翻意して清のドルゴン(多爾袞)に李自成を討つための援助を求めた。彼は率先して頭をそり上げ、辮髪を結って恭順の意を示した。

     

     こうして、呉三桂そしてドルゴンは崇禎帝の敵を討つ「義軍」として、李自成軍を打ち破り、北京へ入城した。この際、父呉襄とその家族は李自成軍に殺されている。

     

     なお、彼が清に投降した理由について、北京に残してきた愛妾陳圓圓が李自成の部将劉宗敏に奪われたからだという説が広く流布している。当時からこの噂はあったようで、同時代の詩人呉偉業(梅村)はその詩「圓圓曲」で呉三桂を痛烈に批判している。

       

        鼎湖當日棄人間   鼎湖 當日人間を棄つ

      (その日、皇帝がこの世を去った)

            破敵收京下玉關   敵を破り京を収めんとして玉關を下る

      (呉三桂は敵を破り、都を奪回しようと山海関に入った)

            慟哭六軍俱縞素   慟哭す 六軍 俱に縞素(こうそ)

      (全軍みな慟哭して、喪服を着けたが)

            衝冠一怒為紅顏   冠を衝いて一怒するは紅顏の為めなり 

      (冠をつきあげるほどの激怒は、実は美女のためだった)  

         

     特に「冠を衝いて一怒するは紅顏の為めなり」は非常に有名で、呉三桂は金品を贈ってこの句を削るように頼んだが、呉偉業は頑として応じなかったという。

     

     

     山海関で李自成と清の軍勢に挟まれる形で窮地に立っていた呉三桂が清軍に降った経緯に関しては、諸説があり確かな結論は無い。

     

     ただ(女性の方々には大変失礼だが)「孝」をなにより重んじる伝統道徳の中で生まれ育った呉三桂が、自分の父と一族の多くの命より妾一人の方を取るというのはかなり無理があると思う。

     また、陳圓圓その人の事跡についても、諸説紛々でその実像は謎に包まれている。なにしろ、李自成が北京から逃亡して以降、全く行方が分からないのだ。

     

     

     考えるに、彼が自分の父や家族をいわば見殺しにする形で清に投降していることからして、そこには冷徹な利害の計算があったことは間違いない。

     前述のように、呉一族は遼西に大きな利権、さらには私兵集団すら抱える軍閥であった。

     しかも、彼の母方の叔父である祖大壽や、洪承疇ら同僚・友人・上司の多くが今や清朝側に立って戦っており、実際彼らはたびたび投降を勧めてきてもいる。彼は熟慮の末、まだ国家としての基礎の定まっていない李自成の「大順」政権に投降するよりは、より安全で自分の既得権をそのまま受け継げる「大清」を選んだのだろう。

     

     彼は確かに国を売ったのかもしれない。だが、それは決して一人の女性のためではなく、一地方勢力の領袖として、より安全確実な「買い手」を探した結果であろう。

     

     

     なお、これに類する風説は、洪承疇にもあって、荘妃(孝荘皇太后)が色仕掛けで落としたとか、果てはゲイ(!)の色仕掛けで陥落した※といった話が清代の筆記や野史に見える。

     明を代表する政治家・軍人であった洪承疇の投降は、明にとってかなりのショックであったらしく、その理由づけとしてこういう噂が語られたのかもしれない。

     

     とすれば、呉三桂と陳圓圓の伝説も事実としてではなく、「なぜ国を売ったのか」という明の遺民たちの痛憤としてとらえるべきであろう。

     

     

    ※『嘯亭雜録』卷一 用洪文襄  にて毛奇齢(西河)の説として引用。著者の礼親王昭槤は「何厚誣之甚(なぜそんなに人を貶める?)」と言って、この説を否定している。(毛奇齢の原典は未見)

     

    (つづく) 

    November 06

    シュルガチ(舒尓哈齊)墓碑文

    以前、遼陽の東京陵を見学したとき(5月29日日記参照)、ヌルハチの弟シュルガチ(šurgaci 碑文ではšurhaci, 漢字表記は舒爾哈斉または舒爾哈赤、碑文では「舒尓哈齊」)の墓の碑亭の満漢合璧碑文を写してきました。訳してみたので公開します。

    凡例 1、満洲語の入力は、メーレンドルフ式ローマ字を用いる。2、史料中の改行は/で示す。3、史料中の抬頭は○で示す。 

    (満文)

    ambalinggū darhan baturu cin wang ni bei bithe./gūnici gurun boo,uksun,erdemungge
      莊    darhan baturu親   王 の 碑 文 惟うに 国  家は 宗室、有徳の者

    urse be iletuleme,mukūn be wesimbuleme, bisire de wesihun jergi bure ,akū oho
    たち を顕彰し、一族のものを尊重して、  高位にせんとするも、   亡くなった

    manggi amcame fungnengge fulehe gargan be jiramilara, dosholome gosire

    ので、  追    封し    本家と連枝    を厚遇して、     寵愛と 慈しみ   

    be tuwaburengge. /darhan baturu šurhaci si/○taidzu dergi hūwangdi i banjiha deo,
    を明らかにするものである。darhan baturu シュルガチ汝は太祖高皇帝  の胞(同母)弟、

    mini ecike mafa。jalan wesihun bime, abkai fisen de umesi hanci.geli sain jui be ujifi,

    わが叔祖(大叔父)。世代が上であり 天潢(皇族)に 極めて近しい。また良き子を養い、

    amba gung be ilibuha be dahame,giyan i amcame wesihulefi, ginggun erdemu be iletuleci
    大  功 を 立てたことを記録し、よろしく 追   崇して  謹   徳  を明らかに 

    acambi./tuttu ofi cohome ambalinggū cin wang seme nonggime fungnefi,

    すべきである。よって特に   荘     親 王 とし、加    封して  

    fiyanji dalikūi jergi de obufi, omosi de werihe sain be iletulehe. šeri fejergi de eldembume,

    藩  屏  の 位 とし、子孫 に 残した  善 を明らかにした。泉 下 に祖先の名を輝かせ、

    mukūn be ujelere gosin be badarabuha.bei wehe de/folofi enteheme mohon akū tutabuha.

    一族     を   敬う   仁    を 広めた。    碑  石 に  彫って 永く 果て   なく 残した。

    ijishūn dasan i juwan emuci aniya ,ilan biyai juwan de ilibuha.

      順   治  十   一  年、 三  月 十日 に立てた。

    darhan baturudarhanはモンゴル語、大きな功績を挙げたものへの称号。baturu:勇者

    (満文は急いで写し取ったので間違いがあるかもしれません)

     

    漢文(標点は筆者)
    莊達尓漢把兔魯親王碑/惟國家褒顕宗英、推崇皇族、生頒榮秩、歿予追封、所以篤本支昭親愛也。
    尓達尓漢把兔魯舒尓哈齊乃/太祖高皇帝胞弟、朕之叔祖、糸序既尊天潢孔切、更生賢胤、克奏膚功。宜用追崇彰祇徳茲特/加封尓為莊親王、列在藩屏、聿展貽孫之媺光、施泉壤允敷敦族之仁。勒諸貞[王民]永垂不朽
    順治十一年三月初十日立。

     

     東京陵碑文 001東京陵碑文 066東京陵碑文 085




    October 20

    范文程

    ○八旗人物○

     

    范文程(はんぶんてい fan4 wen2 cheng2)

    明万暦二十五年(1597)~清康煕五年(1666)
    字、憲斗、号、輝嶽。諡、文粛。漢軍鑲[金襄]黄旗人。

    北宋の名臣范仲淹の後裔を称す(遠藤隆俊 1995に詳しい)。ヌルハチ・ホンタイジ・順治・康煕の四代にわたって仕え、清初の対漢人統治の確立に大きく貢献した。

    范文程の先祖は明初、江西から瀋陽に流され、曽祖父總[金へん]は明嘉靖年間に兵部尚書に上った。彼は幼い頃から読書を好み、十八の年に生員となった。

    清天命三年(1618)ヌルハチの撫順攻略時に兄とともに後金に降った。この時、ヌルハチは左右のベイレたちをふりかえって「此れ名臣の後なり、善く之を遇せ」と言い、以後重く取り立てることとなる。文程もまたこれによく応え、遼陽、西平、広寧など遼東諸城の攻略において、常にヌルハチのそばにあって献策にあたったという。

    太宗ホンタイジの時代になると、漢人のブレーン集団のリーダー格として、文館(後の内三院、内閣)で活躍し、華北進攻、チャハル部(内モンゴル)征服、孔有徳と耿仲明の来帰、さらには科挙の実施など、多くの重要事項に献策を行うようになった。

    崇徳元年(1636)、ホンタイジが中国的王朝「大清」を旗揚げし、文館を内三院と改めると、文程は秘書院大学士となった。ホンタイジの彼への信頼ぶりは「大政を議する毎に、必ず籌画に資す。各国に宣諭する勅書は、皆文程の手に出づ」と記されているほどである。

    崇徳八年(1643)、漢軍鑲[金襄]黄旗に編入。

    順治元年(1644)、ドルゴン率いる清軍が山海関に進攻した時、明の混乱ぶりを見て華北への積極進攻策を提案する。その後崇禎帝が自殺、李自成が北京を占領するや「大順」政権の腐敗を的確に見抜き、明のために仇を討つ「義軍」として入関する方針に転換、これにより北京占領、華北の征服は抵抗らしい抵抗もなく完了した。その功績により翌年、三等梅勒章京を授けられ、以後、華北での科挙実施、人材登用、官制の整備、さらに屯田による財政基盤の確立に勤めた。

    官は順治九年(1652)には議政大臣、一等精奇尼哈番(子爵)に累進し、十一年(1654)に少保兼太子太保を加えられ、同年九月、病により官を退いた。順治帝は彼の功績を絶賛し、いたわりの言葉をかけ、さらに太傳兼太子太師の官を授け、自ら調合した薬を賜った。

    康煕元年(1664)、命を奉じて太宗の陵に祭告(先祖への祭祀と即位報告)をおこなったとき、その場に伏して慟哭し、しばらく立ち上がれなかったという。彼自身、ホンタイジとの信頼関係を思い起こし、感慨深いものがあったのだろう。

    康煕五年(1668)八月に病死、享年七十歳。北京北方の懐柔県に位置する紅螺山に葬られた。墓道には御製の碑文が立てられ、後、祠堂には御筆の「元鋪高風」の額を賜った。

    彼の性格は廉潔で度量が深く、喜怒哀楽を表に出さず、ひたすら清朝の縁の下の力持ちとして、漢人統治の実行に当たった。入関前は、皇帝も彼を尊んで名を呼ばず、ただ「范章京」とのみ呼んだという。

    范文程は満洲貴族、八旗制度と漢人社会相互の矛盾を一手に引き受ける立場にあったが、その難しい課題を見事にこなしたといえるだろう。
    (モンゴル(元)における耶律楚材、耶律阿海にあたる存在か?)

     

    参考文献・サイト

    (史料)

    『八旗通志』(初集)卷一百七十二 名臣列傳 范文程

      (『八旗通志』鄂爾泰 等 奉敕撰 乾隆四年(1739) 東北師範大学出版社 1985)

    (論文)

    遠藤隆俊「范文程とその時代―清初遼東漢人官僚の一生―」

    (『東北大学東洋史論集』6 1995)

    神田信夫「清初の文館について」

    (『東洋史研究』第十九巻第三号 1960→神田信夫『清朝史論考』山川出版社 2005)

    (サイト)

    中央研究院 漢籍電子文獻 二十五史 『清史稿』

    http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3


     
     
    最近、自分は清に仕えた漢人に興味をもっています。自分自身も異文化の中で生きているからでしょうか?
    次は、呉三桂あたりを取り上げてみようかな。