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    October 05

    三宅理一『ヌルハチの都―満洲遺産のなりたちと変遷―』

     

    三宅理一『ヌルハチの都―満洲遺産のなりたちと変遷―』

    ランダムハウス講談社 2009年2月

     

    第1章 ヌルハチとマンジュ国

    第2章 フェアラ築城

    第3章 ヘトアラ造営とアイシン国の開国

    第4章 遷都の時代ーサルフから東京城へ

    第5章 瀋陽大改造

    第6章 瀋陽の空間構造

    第7章 故宮の建築

    第8章 陪都・瀋陽と乾隆帝

    第9章 皇帝の陵墓

    第10章 満洲人のすまい

    あとがき

     

    本書は、建築史家かつ都市計画の専門家である三宅理一氏が、清朝初期の都城すなわち「ヌルハチの都」であるフェアラ・ヘトアラ・サルフ・ジャイフィヤン・遼陽・東京城そして瀋陽(盛京)の都市計画、宮殿・諸建築・陵墓および住宅の様式と変遷について、北京やほぼ同時代にあたる江戸時代の日本都市、そしてヨーロッパとの比較を交えつつ語ったものである。

     

    以下、興味を持った内容を大まかに紹介していきたい。

    第1章~第4章では、ヌルハチの興起と遷都を繰り返し、瀋陽へと落ち着くまでの各都城のプランの変遷について述べている。

    マンジュ五部を統一し、「マンジュ国」を成立させたヌルハチが築城した都城であるフェアラ城、そしてヘトアラ城・サルフ城・ジャイフィヤン城は尾根に位置する内城と緩やかな斜面上に位置し、部下の部族長や部族民が集住する外城により構成され、女真族の様式が色濃かったが、遼東征服後に遼陽郊外に新たに造営された東京城では『周礼』考工記に見える井桁型パターンの中国的都城プランが初めて取り入れられた。

    また、東京城は遼陽城での満洲人と漢人の雑居によるトラブルや防御上の必要により、満洲人だけの街としてつくられ、以後満洲旗人と漢人が分居する「旗民分居」は瀋陽、北京そして中国各都市において踏襲されたことを指摘し、さらにこうした都市構造を武士団が中心部に集住し、外側に町人が住む日本の城下町になぞらえている。

     

    「第5章 瀋陽大改造」では、ホンタイジによる瀋陽の都城への大改造につき述べている。ヌルハチが最後に遷都した瀋陽城は元々は東西南北の四門と城内の東西・南北を貫く十字路により構成された都市だったが、太宗ホンタイジの時代に東京城のプランに基づき井桁型パターンの都城へと大改造され、城門の名前も東京城と同じ名がつけられた。ヌルハチ期に造営された瀋陽故宮東路の大政殿と十王亭についても詳細に述べている。

    「第6章 瀋陽の空間構造」では、ホンタイジによる改造後の瀋陽の空間構造を論じている。

    第一に『盛京城闕図』にもとづき、宮殿・六部・親王府など重要施設の位置と役割などにつき整理している。漢人統治機関である奉天府と日本の町奉行所(町人統治機関で武士への管轄権を持たない)との比較は面白い。

    第二に親王府の建築配置方式の変化につき、『盛京城闕図』、康熙『大清会典』に基づき検討を加えている。著者は、盛京のホンタイジ期の親王府は四合院を二つ重ねたような配置となっているが、北京では宮殿に準じた「前朝後寝」配置へと変化したことを指摘している。

    第三に瀋陽における「旗民分居」について述べている。

    第四に瀋陽の「八旗方位」(八旗各旗の居住区配置)について、史料とフィールドワーク(実測調査・ヒアリング)に基づき検討を加えている。著者は、瀋陽の八旗方位は正紅旗、鑲紅旗が東側、正白旗、鑲白旗が西側となっており、北京や瀋陽故宮東路の八旗方位と東西が入れ替わっていたこと、さらに瀋陽の「八旗方位」はホンタイジ期に八旗各旗を領有していた親王(旗王)の親王府の位置(『盛京城闕図』記載)とそのまま対応していることを明らかにしている。

    「第7章 故宮の建築」では、第5章で東路建築に触れた流れを受け、中路建築を中心に紹介している。

    第一に瀋陽故宮の建築プロセスについて触れ、瀋陽故宮の東路と中路の軸線のずれは瀋陽大改造の痕跡であるとしている。ヌルハチは、占領した瀋陽の十字型プランをそのまま受け継ぎ、瀋陽城中央の十字型街路(通天街)に沿って東路の造営を行ったのに対し、中路はホンタイジの瀋陽大改造に伴う十字型街路(通天街)の撤去と井桁型街路への転換と同時に造営されたために、東路と中路に軸線のずれが生じたという。

    第二に、中路の諸建築について述べ、中国式(漢族式)の様式と女真・満洲族様式の同居した建築につき詳細に論じている。特にホンタイジの居所であり、シャーマニズムの祭祀が行われる場所でもあった清寧宮については紙数を割いている。

    「第8章 陪都・瀋陽と乾隆帝」では、派手好きで新しい物好きの乾隆帝により、新たに造営された中路東西の東所・西所と西路の諸建築につき、建物平面図・図面・写真などを用い詳しく紹介している。瀋陽故宮の建築はこれまで満洲的・北方的特色の濃厚な東路、中路のみが注目され、蘇州様式に代表される漢族的・南方的特色の強い東所・西所と西路の建築についてはあまり紹介されてこなかった嫌いがあるので、読んでいて面白かった。

    また、建築装飾のヨーロッパの宮殿との比較、戯台(舞台)と日本の能舞台との比較も興味深い。

    「第9章 皇帝の陵墓」は、まず第一に瀋陽のチベット仏教寺院を取り上げ、その背景にある清朝のチベット仏教保護と国家鎮護思想、仏教の曼荼羅的思想の都市構造への影響を紹介し、さらに回族のモスク(清真寺)にも言及するなど、瀋陽の宗教都市としての一面と文化的多様性を指摘している(瀋陽のチベット仏教寺院については石濱裕美子氏の優れた研究が存在するので併読されたい)。

    第二に「盛京三陵」永陵・福陵・昭陵と遼陽の東京陵に見られる葬制・墓制の変化について紹介。

    ヌルハチ・ホンタイジ・順治帝はいずれも火葬され、ヌルハチ・ホンタイジの遺骨は当初は地上の享殿(廟)に納めていたが、入関後康熙帝が中国的な土葬を採用し、以後は皇帝の遺体は陵の北側に設けられた土饅頭状の「宝城」地下の「地宮」(地下宮殿)に納められることになり、ヌルハチ・ホンタイジの遺骨も改めて造営された地宮に納められた。

    また「盛京三陵」と東京陵を通じ、女真族の「樹柵為寨」(木の柵で取り囲まれた墓所に一族の墓をまとめて造営して祀る)陵墓から中国的な陵墓への変化を概観している。

    さらに陵墓造営の背景にある風水思想や風水思想の都市構造への影響についても紹介し、陵墓の「龍脈」を守るために瀋陽郊外の開発が厳しく規制されたことにより、瀋陽郊外にグリーンバッファーゾーンを形成し、環境保護に大きな役割を果たしたとして、風水思想の環境面での意義を高く評価している。

    第三に、陵墓の造営に当たった漢人土木技術者臧国祚(ぞうこくそ、本文では「蔵国祚」と誤植)について紹介。後金・清朝に仕えた漢人テクノクラートの生涯は非常に興味深い。

    第四に、陵墓への「前朝後寝」配置の導入や祭祀の式次第につき詳述。ここでも満洲族、チベット仏教、漢族的祭祀制度の同居が見られる。

    「第10章 満洲人のすまい」では、ヘトアラや永陵鎮に分布する満洲人の民家の実測・フィールドワークに基づき、満洲人の民家の様式とその変容過程、さらに清末に衰微したヘトアラから永陵鎮への移築の軌跡を明らかにしている。調査対象となった民家は現在既に失われてしまったものも多く、本章の内容は史料的価値が高い。

     

    以上、本書には著者と現地研究者による16年間にわたる共同研究とフィールドワークの成果がふんだんに盛り込まれており、読んでいて次々と新しい情報に出会えたし、東アジアとヨーロッパの建築史・都市史に精通する著者のグローバルな視点には啓発される点が多かった。

    また、本書には史跡の写真や共同研究の成果である建築図面、図版が180点も掲載されており、またそれらに記録された古い街並みや史跡は改革開放以来の開発の波によって消え去ってしまったものも多く、史料的価値が非常に高い。

     

    あえて欠点を挙げるとすれば、第一に清朝史関連用語の誤字・誤植がやや目についたこと。以下気がついたものを列挙。

    p15ほか 興京(ルビ:こうきょう)(誤) → 興京(ルビ:こうけい)(正)(1)

    P32 建州(マンジュ)五部(地図):トゥルソ(誤) → トゥルン(正) 

    ソルゴ・フィオンド(誤) → ソルゴ・フィオンドン(正)

    p34 ヌルハチの系譜(図版):プクリ=ヨンション(誤) → ブクリ=ヨンション(正)

    メンゲティルム(誤) → メンゲティムル(正)

    シベチオ=フィヤング(誤) → シベオチ=フィヤング(正)

    p36 スクフク部(誤) → スクスフ部(正)

    p140ほか 『盛京城闕図』(ルビ:せいきょうじょうけつず)(誤) →  『盛京城闕図』(ルビ:せいけいじょうけつず)(正)(1)

    p145 府伊(ルビ:ふい)(誤) → 府尹(ルビ:ふいん)(正) 

    p149 前朝后寝(誤) → 前朝後寝(正)

    p156ほか 『八旗通史』(誤) → 『八旗通志』(正)

    p181 関雎(ルビ:かんし)(誤) → 関雎(ルビ:かんしょ)(正)

    p194 清寧宮平面図(図版):車晙閣(誤) → 東暖閣(正)

    p232 角觝戯(ルビ:かくしぎ)(誤) → 角觝戯(ルビ:かくていぎ)(正)

    p233 木蘭囲場(ルビ:もくらいじょう)(誤) → 木蘭囲場(ルビ:もくらんいじょう あるいは ムランいじょう)(正)

    p252~255   国祚(誤) → 臧国祚(正)

    p254 甲喇章京(ルビ:ジャラン・ジャンジン)(誤) → 甲喇章京(ルビ:ジャラン・ジャンギン)(正)(満洲語:jalan  i  janggin)

    p256 莫譚(ルビ:えきたん)(誤) → 莫譚(ルビ:ばくたん あるいは モータン)(正)(満洲語:mootan)(2)

    p262 国威舅姨子孫(ルビ:こくいきゅうししそん)(誤) → 国威舅姨子孫(ルビ:こくいきゅういしそん)(正)

    p263 [5]昴邦章京(マオバン・ジャンジン)(誤) → 昂邦章京(アンバン・ジャンギン)(正)(満洲語:amban janggin)

    梅勒章京(メイレ・ジャンジン)(誤) → 梅勒章京(メイレン・ジャンギン)(正)(満洲語:meiren janggin)

    甲喇章京(ジャラン・ジャンジン)(誤) → 甲喇章京(ジャラン・ジャンギン)(正)(満洲語:jalan i janggin)

    牛禄章京(ニル・ジャンジン)(誤) → 牛彔章京(ニル・ジャンギン)(正)(満洲語:niru i  janggin) 

    精奇尼哈番(ジンチニ・ハファン)(誤) → 精奇尼哈番(ジンキニ・ハファン)(正)(満洲語:jingkini hafan)

    阿思哈尼哈番(アシハニ・ハファン)(誤) → 阿思哈尼哈番(アスハニ・ハファン)(正)(満洲語:ashan i hafan)

     

     

    本書の内容が非常に優れているだけに惜しまれる。

     

    第二に、ヘトアラ城の復原(復元)の問題点について触れていないこと。本書ではヘトアラ城の「復原」建築を写真入りで大きく取り上げる一方、観光や町おこしを重視するあまり本来ヌルハチ時代には存在しなかった豪華な建物や城壁が「復原」されていること、ヘトアラ城の観光化・公園化による史跡の破壊という問題点(3に全く言及していない。これではヘトアラ城の「復原」建築が過去本当に存在し、「復原」が正確なものであるかのような誤解を与えかねない。

     

    とはいえ、本書が清朝建築史・都市史における重要な成果であることには変わりはない。村田治郎『満洲の史蹟』(座右宝刊行会 1944)以来の快著といえるだろう。

    ・・・・・・

    (1) 中国の漢語固有名詞(人名・地名)は漢音で読むのが中国史学の慣習。

    (2) 『八旗通史列伝索引』(東洋文庫満文老檔研究会 1965)

    (3) 承志・杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告―2005年遼寧・吉林踏査行―」『満族史研究』第5号 2006、劉正愛『民族生成の歴史人類学―満洲・旗人・満族―』風響社 2006 なお、日本各地の城跡にも類似した問題がある(元々天守のなかった城に豪華な天守を建てることなど)





    September 12

    何栄偉編『满语365句』

    manjugisun365

    満語365句

    何栄偉 編 

    遼寧民族出版社 2009.6

     

    目次

    前言
    一、问候(あいさつ)
    二、身体(身体、健康)
    三、年龄(年齢)
    四、家人(家族)
    五、姓名(姓名)
    六、互相认识(自己紹介)
    七、吃饭(食事)
    八、喝东西(飲み物)
    九、工作(仕事)
    十、满文(満洲語文語)
    十一、满语(満洲語口語)
    十二、看书(読書)
    十三、上街、买东西(町へ出る、買い物)
    十四、乘车(バス)
    十五、学校(学校)
    十六、上课(授業)
    十七、四季、年月日(四季、年月日)
    十八、天气(天気)
    附录(付録)
    满文罗马转写与国际音标对照表(満文ローマ字転写・国際音声記号(IPA)対照表)
    满文第一字头~第十二字头(満文十二字頭)
    切韵清字(漢語の満洲語による注音表記)
    满洲外单字(満洲外単字)
    满洲外连字(満洲外連字)
    满文数字(満洲語数字)
    天干(十干)
    地支(十二支)
    二十四节气(二十四節気)
    满文重量单位(重量単位の満洲語)
    满文容积单位(容積単位の満洲語)
    满文长度单位(長さの単位の満洲語)
    清朝历代皇帝年号(清朝歴代皇帝の年号)
    清朝历代皇帝庙号(清朝歴代皇帝の廟号)
    清朝历代皇帝陵寝名称(清朝歴代皇帝陵の名称)

     

    満洲語の基本的なセンテンス365句を収録した満洲語学習書。この本がすごいのはシベ(锡伯)族のアナウンサーが録音した満洲語発音CDが添付されていること。満洲語・シベ語の生きた発音を聞く機会が少ないだけに貴重。

    私も購入後早速PCにコピーし、暇な時に聞いて、満洲語を学習している。

    満洲語に興味のある方はぜひぜひご購入を!出版部数が少ないのでお早めに!





    July 29

    王濤「清火器営初考」

     

    王濤「清火器営初考」(『軍事歴史研究』2007年第3期)

     

    著者の王濤氏は、太宗天聡年間から康熙年間の多くの史料に分析を加え、入関前の「八旗火器営」、「旧漢兵」(のちの八旗漢軍)から「漢軍火器営」そして「八旗満洲火器営」(満洲・蒙古旗人によって編成。「火器営」は通常この部隊を指す)など多くの「火器営」の兵種・制度や変化の過程につき、初歩的な整理を行っている。  

    まず入関前の天聡三年(1630)の北京進攻の際の史料に見える「八旗火器営」について検討を加え、「八旗火器営」は一つの作戦部隊ではあったが、この時点ではまだ制度的に独立した兵種とはなっていなかったのではないかとしている。著者は、史料中でホンタイジが500名の「火器営兵」を率いながらも、一方で依然として八旗各旗を作戦単位として戦闘を行っていることを指摘し、「八旗火器営」はあくまで実戦において火力を支援するために臨時に編成されたもので、独立した火器専門部隊とするのは無理があるとし、したがって、この時点で八旗満州が独立した火器専門部隊「火器営」を有していたとするのは早計としている。 

    次に、著者は、ホンタイジがのちに八旗満洲各旗から漢人を抽出して「旧漢兵」による独立した火器部隊、後の八旗漢軍を編成する一方、平時においては彼ら漢人と八旗満洲各旗・旗王(貝勒)との関係が依然として継続しているという点を指摘、これらの部隊は八旗満洲との制度的な継承性を有しているとしている。

    著者は、これまで半ば常識化していた、八旗漢軍編成の旗王権力への対抗措置としての意義を過大評価せず、実際の制度運用と制度的な継承性にも注目すべきと主張している。

    そして、このような八旗各旗からの兵員抽出による独立部隊編成は康熙年間の「漢軍火器営」、康熙二十八年(1689)編成の「漢軍火器兼練大刀営」、康熙三十年(1691)に編成された火器営(八旗満洲火器営)のモデルとなったとしている。

    ・・・・・・

    以下、感想を述べる。

     

    「火器営」という単語は元々は火器を運用する部隊を広く指す普通名詞であり、多くの史料にさまざまな「火器営」が登場しているため、意味のブレや混乱を生んでおり、研究の障害となっている。したがって今回の王濤氏が行った整理の意義は大きい。

    八旗各旗から兵員を抽出して独立した部隊を編成するという方法は、八旗から選抜された精鋭部隊である護軍や前鋒という例があり、それが康熙三十年(1691)に編成された火器営(八旗満洲火器営)にも受け継がれていることは、これまでの研究でも知られてきたが、 「旧漢兵」もモデルとなっていたという視点は面白い。

    八旗各部隊・兵種の制度変革における継承性、連続性という視点には賛成したい。 

     

    惜しむらくは、康熙二十八年(1689)編成の「漢軍火器兼練大刀営」に関する部分で、『康熙起居注』、『宮中檔康熙朝奏摺』や『親征平定朔漠方略』などの関連史料を取り上げず、やや浅い分析となっているところ。『康熙起居注』の漢軍火器営編成に関する史料や『宮中檔』・『朔漠方略』内の対ジューンガル部戦における漢軍火器営、満洲火器営の活動を示す個所を取り上げていれば、著者の論をより補強できたと思うのだが。

     

    修士論文でこの辺を少しかじったので、個人的にもう少し突っ込んで分析してみたい。




    April 03

    村上信明『清朝の蒙古旗人―その実像と帝国統治における役割―』


    村上信明『清朝の蒙古旗人―その実像と帝国統治における役割―』ブックレット《アジアを学ぼう》4 風響社 2007


    目次

    はじめに

    1 清朝史への関心の高まり

    2 帝国統合の中核組織―八旗

    3 蒙古旗人は「満洲」か、「モンゴル」か?

    ① 清朝の帝国統治における蒙古旗人の役割

    1 清朝に帰順したモンゴル人と蒙古旗人

    2 清朝の藩部統治と蒙古旗人

    ② 蒙古旗人のモンゴル語能力と清朝の言語政策

    1 順治・康煕年間の蒙古旗人に対する言語政策

    2 蒙古旗人のモンゴル語喪失問題

    3 蒙古旗人の昇進ルート

    4 乾隆帝のモンゴル語政策

    ③ 蒙古旗人とチベット仏教

    1 清朝とチベット仏教

    2 『百二老人語録』にみる松筠の自己認識

    3 モンゴル・チベット統治に従事した蒙古旗人のモンゴルアイデンティティ

    ④ 清朝の帝国統治構造と八旗の多様性

    結びに代えて

    注・参考文献

    あとがき 

       

     よく知られるように、八旗は満洲・蒙古・漢軍の三つの集団により構成されていた。だが、モンゴルをルーツとする八旗蒙古と蒙古旗人を独自に扱った研究は他の二集団に比べ非常に少ない。なぜなら、本書の冒頭で問題提起されているように、これまでモンゴル人が八旗に編入され「蒙古旗人」となった後は満洲人と同じ扱いを受け、言語や生活習慣でも「満洲化」したとみなされてきたからである。

     本書はこの蒙古旗人を専門に取り上げたもので、著者の村上信明氏は蒙古旗人の帝国統治における独特な役割、その背景にある清朝の政策、そしてモンゴル語やチベット仏教信仰に代表される蒙古旗人のモンゴルアイデンティティについて豊富な実例を挙げることにより、八旗制度と清朝の帝国統治における蒙古旗人の独自な位置づけを試みている。

     著者は、まず「はじめに」で、清帝国全土で官僚となることができたのは旗人だけであり、漢人科挙官僚は中国内地の統治のみを担当し、モンゴル王公たちも中国内地の統治に携わることはなかったこと、そして八旗は旗人官僚を輩出することによって帝国統合の中核となっていたことを指摘している。

     「①清朝の帝国統治における蒙古旗人の役割」では、まずモンゴル人の八旗編入と八旗蒙古の成立について概略を述べ、次いで蒙古旗人用の任官ポスト(蒙古缺)数・任官者数のデータにより、蒙古旗人が理藩院の官僚や藩部のさまざまな官職で重用され、モンゴル語能力を生かして藩部(モンゴル・チベット)統治の実務の担い手となっていたことを明らかにしている。

     「②蒙古旗人のモンゴル語能力と清朝の言語政策」では、蒙古旗人のモンゴル語能力の低下と、それに対する清朝側の政策として蒙古旗人へのモンゴル語学習の訓示、八旗官学でのモンゴル語教育や「蒙古翻訳科挙」と呼ばれる蒙古旗人に対するモンゴル語翻訳者採用試験を取り上げ、雍正帝、乾隆帝が前述の理藩院・藩部の人材源として、蒙古旗人のモンゴル語能力維持に力を入れていたことを明らかにしている。ただ、これらの政策をもってしても蒙古旗人のモンゴル語能力の低下には結局歯止めがかからなかったようだ。

     「③蒙古旗人とチベット仏教」では、18世紀末期から19世紀初頭にかけ中央や藩部の要職を歴任した蒙古旗人松筠(スンユン)の著作『百二老人語録』と、モンゴル・チベット統治に従事した蒙古旗人三名の満文奏摺を取り上げ、蒙古旗人は八旗に編入されたのちもチベット仏教信仰を失わず、それが彼らのモンゴルアイデンティティを支えていたこと、そして清朝側もまた蒙古旗人に対してモンゴル人・チベット仏教徒として行動することにより、モンゴル・チベット統治を適切かつ円滑に進めることを期待していたことを明らかにしている。

     「④清朝の帝国統治構造と八旗の多様性」で、まず著者はこれまでの内容を総括し、蒙古旗人は清朝支配者層である「旗人」としての身分や言語(満洲語・漢語)・習慣とともに被支配者であるモンゴル人・チベット人と共通の言語・習慣を兼ね備え、モンゴル・チベット統治事務を適切かつ円滑に処理すべき存在と位置づけられていたとし、そして八旗のこのような民族的多様性が多様な民族集団によって構成される清朝の統治にとって重要な意味を持っていたことを指摘している。

     次に蒙古旗人のこのような特色は清朝初期の中国内地統治の担い手となった漢軍旗人とも共通していることを指摘したうえで、満洲旗人の漢語習得・漢文化吸収が進み、漢人科挙官僚へも清朝皇帝の権威が浸透していくにつれ、中国内地統治における漢軍旗人の存在意義が低下していったのに対し、蒙古旗人は時代が下るにつれ藩部(モンゴル・チベット)統治の担い手としてクローズアップされ、「満洲化」・「漢化」が進むほどに「モンゴル」らしくあることを求められたとしている。

    「結びに代えて」では、今後の研究課題を以下の三点にまとめている。

    一 蒙古旗人と侍衛制度の関係

    二 モンゴル・チベット統治に従事した蒙古旗人の動きと清朝による帝国統治の具体的展開への影響

    三 十九世紀以降の蒙古旗人の具体像

     著者は、蒙古旗人への理解を深めることは、満洲・漢軍旗人を含めた八旗全体、また八旗を中核とした清朝の帝国統治に関する研究の進展にも結びつく重要な作業であるとし、蒙古旗人への関心を呼び掛けつつ、本文を結んでいる。

    ・・・・・・

     非常に面白く読めた。たった57ページのブックレットなのに、中身は非常に濃い。村上氏の一連の蒙古旗人研究がこの一冊に濃縮されているし、その他にも最新の研究成果や観点が随所に盛り込まれ、読んでいて大いに啓発された。

     また、「②蒙古旗人のモンゴル語能力と清朝の言語政策」で取り上げられている蒙古旗人のモンゴル語に関する諸問題や「①清朝の帝国統治における蒙古旗人の役割」、「④清朝の帝国統治構造と八旗の多様性」で指摘されている蒙古旗人の役割と八旗制度における位置づけは、当ブログで取り上げている俄羅斯旗人との共通点が多く、非常に興味深かった。

     八旗は清朝と満洲族にただ軍事的に貢献したのみならず、そこから多くの忠実な旗人官僚を輩出することにより、満洲族支配階層とモンゴル人社会・漢人社会・チベット人社会、そしてロシアとの仲介者としての役割を担い、大清帝国を円滑に統治する上で欠かせない役割を担っていたということだろう。

     



    November 26

    歴史群像シリーズ『大清帝国―“東洋の獅子”の栄光と落日―』




    『大清帝国―”東洋の獅子”の栄光と落日―』新・歴史群像シリーズ 15 学習研究社 2008年7月


     待望の清朝史の歴史群像シリーズ。

     王朝の創始から康熙、雍正、乾隆の繁栄を経て、清末の衰亡へと至る歴史の概説、皇帝とそれを取り巻く様々な人物たちの評伝、清朝の統治術、八旗制度についての説明など、清朝史の話題が盛りだくさん。

     

     歴史群像シリーズの特徴である写真やイラストも豊富に盛り込まれ、紫禁城や八旗兵の再現イ ラスト、江戸時代の日本で描かれた『唐土名所図会』、そして清末の古写真をふんだんに引用することで、これまで文章から想像するしかなかった清朝という時代をビジュアルで理解できるようになっている。

     特に八旗制度については多くのページを割き、最新の研究成果を盛り込みつつ、図やイラストを交えてわかりやすく解説している。八旗制度は単純なように見えて、実はかなり複雑な制度だが、図やイラストを見れば一目瞭然に理解できる。一般書で八旗制度についてここまで詳しい解説は初めて見た。感動した! 

     清朝の統治術については、満洲族がトップに立つという原則は守りつつ、内陸アジア世界の「ハーン」、東アジア世界・儒教文化圏の「皇帝」などいろいろな顔を使い分けたことや、各民族や各地区の状況に応じ、かつ硬軟をうまく取り混ぜた巧みな統治ぶりをわかりやすく解説。また、モンゴル帝国に類似した内陸アジア的な側近政治の構造にも触れている。

     ただ、その背景にある思想面については紙幅の関係上深く掘り下げられていないし、清朝の統治階層である満洲族以外の諸民族、特に「藩部」の回部(ウイグルなど中央アジア諸民族)、チベットの動向についてももう少し補足が欲しかったが、これらの問題については、石橋崇雄『大清帝国』平野聡『大清帝国と中華の混迷』  、石濱裕美子『チベット仏教世界の歴史的研究』 などを併せ読めばより理解が深まるだろう。

     

     欠点としては、本書の内容が政治史、軍事史主体で、文化史や社会経済史についてはあまり詳しく取り上げられていないこと。ただ、これは歴史群像シリーズの特徴から言えば仕方のないところか。 

    daicing gurun

    うちの本棚にて


    April 04

    平野聡『大清帝国と中華の混迷』



    平野聡『大清帝国と中華の混迷』興亡の世界史 12 講談社 2007年10月 


     本書は大清帝国が歴史上どういう意味をもつのか、現代の中国とどのようなつながりを持っているのか、そして中国と「中華民族」なるものがいかにして形成されたかについて述べたもので、史実の概説書というよりも清朝史を題材とした近代中国ナショナリズム形成論としての性格が強い。
     
     以下、本書の内容を簡単に紹介していきたい。
      
     
     序章では最近の中国、韓国、朝鮮のナショナリズムを考察し、著者の問題意識を表明している。著者はまず「神武紀元」と「黄帝紀元」を例に挙げ、これら地域のナショナリズムは日本の明治維新以後のナショナリズムが他国へと波及することによって生まれたもので、一見互いに相容れないように見えて実は互いに似通っていること、次に日本人にとって本来自明の「東アジア」なるイメージが実は中国、韓国、朝鮮の人々の持つアジアイメージとはかなりかけ離れていることなどを取り上げ、こういった状況がなぜ生まれたのかを考える必要があるとしている。  
      
     著者はまず第一章で「華夷思想と明帝国」というテーマで、中国史を特徴付ける概念である華夷思想についてわかりやすく解説し、ついで明朝の華夷思想と朝貢貿易によるアジア世界の秩序の構築とその挫折について述べ、本論への導入としている。華夷思想とは皇帝を中心とする「天朝」の中華の文明が四方に拡散していくことにより天下(世界)を文明へと導くというもので、世界を色分けするのは文明(華)と野蛮(夷)であって、「天朝」以外の国家や民族、そして領土などと言う概念はない。したがって近代の国民国家、領域主権国家のナショナリズムとは本来全く違うものである。
     
     
     次いで、著者は第二章以降の本論で、明朝が果たせなかった「中華」によるアジア世界の秩序の構築という課題に清朝がどのように対処したかを述べている。
     清朝が明朝を受け継ぐ「中華帝国」であると同時に、モンゴル帝国から受け継いだ「大ハーン」としての権威、さらにチベット仏教の保護によりモンゴル、チベット、そして東トルキスタン(新疆)を版図に収めた内陸アジアの大帝国であったことはすでに多くの研究成果により明らかであるが、著者はチベット仏教という要素をより重視し、清朝皇帝がチベット仏教の保護者「文殊菩薩皇帝」として振舞うことでチベットから権威付けを得ることによって、モンゴルを初めとする内陸アジアに君臨できたことを繰り返し強調している。
     
     その後、清末の経世儒学者、そして近代的知識人・ナショナリストは、西洋列強や日本の外圧による国家分裂の危機に立ち向かうため、皇帝とチベット仏教という権威の下で多文化、多民族がゆるやかに結合していた「中外一体」の大清帝国を、漢人を中心とする近代的で強固な国民国家、領域主権国家としての「中国 China 」へと読み替える試みを行っていく。彼らは明治維新により近代化を実現した日本に倣って、均質で団結した国民と神聖不可侵の領土を持つ中国を作り出すことで、帝国主義列強に立ち向かおうとしたのだった。
     そしてその過程でそれまで自らの文化を保護されていたモンゴル、チベット人ら諸民族に対する近代化政策が行われていくが、それは自らの文化を守ってきた彼らに突然漢語や儒教を押し付け均質な「中国国民=中華民族」に作り変えようとするものだったため、多くの反発を招き、ついには独立や事実上の自立へと追いやってしまう。 
      
        
     
     
     このように、本書は清朝史を通じた近代中国ナショナリズム形成論という性格が強く、史実の概説としてはやや物足りないが、現代中国の成り立ちを知る上で欠かせない視点を提供してくれる。以下、本書の特色と感想をまとめてみた。
     
     まず、本書の大きな特色は明末からヌルハチの興起、康煕、雍正、乾隆の全盛期、そして清末までを一貫して取り扱っていること。清代を取り扱う概説書のほとんどはアヘン戦争を境目にして2冊に分断されているが、一つの王朝であるからにはやはり一つの本で論じて欲しい。
     
     次に、最近の研究動向を反映して、チベット仏教の内陸アジア世界に対する役割の大きさにスポットライトをあて、現在のチベット問題ともからめつつ多くの紙数を割いている点も大きな特色。雍正帝や乾隆帝のチベット仏教徒としての面も紹介している。
     私自身も、院生時代に清とジューンガル部の戦争に関する史料を調べているとき、両国の皇帝・ハーンがチベット仏教という土俵に立って激烈な論争を交わしている記述にたびたび出くわしており、今までずっと頭の隅にひっかかっていたが、今回本書を読んで納得。また、チベット問題は現在非常にタイムリーな話題でもあるので非常に面白く読めた。
     ただ清朝とチベットの関係に関する記述が充実している反面、それ以外の史実の記述は必要最低限に抑えられており、概説書としてはやや物足りない。
     
     第三に、経世儒学者のナショナリズム思想にスポットライトを当てている点も新鮮だった。経世儒学者の思想は康有為、梁啓超ら近現代のナショナリスト知識人出現の背景として重要でありながらこれまでの概説書ではあまり触れられてこなかったので、読んでいて啓発されるところが多かった。そして、ゆるやかな結合を保っていた大清帝国を「中国」に読み替えていく過程で、明治維新後の日本のナショナリズムの思想要素をかなり取り入れていることを指摘している点も参考になった。
     
     さらに、前近代の「華夷思想」と近現代中国のナショナリズムを無批判に同一視することの誤りをちゃんと指摘している点も良かった。日本では現代中国の大国主義やナショナリズムを批判する際に、しばしば「華夷思想(中華思想)」というキーワードが持ち出されるが、本書でも述べているように両者は本来似て非なるものだ。
     
        著者の主張をまとめると「文殊菩薩皇帝」の権威によるゆるやかな結合(オスマン帝国の「柔らかい専制」を想起させる)の下では許容されてきた民族と文化の多様性が、近代的国民国家、領域主権国家の下では到底許容できない異分子、異端となってしまったということだろうか。
     こうした例は19世紀以降、世界各地において数え切れないほど繰り返され、その度ごとに無用のトラブルや流血を生んできたし、現在の中国でも数々の問題を生み出している。本書の後半部分を読んでいると、かなりやるせない気分になる。
     
     
     
     最後に、私は中国で仕事をしており、普段から中国の強烈なナショナリズムを肌で感じながら生活している。
     毎日のように日本や日本人を蔑視する言論に接し、いつも「なんでやねん?」と悩み続けていたが、今回、この本を読んだことで中国ナショナリズムの生成と展開について、頭の中である程度の整理がついたような気がする。
     
     複雑怪奇な現代中国情勢を理解するには、やはり歴史を学ぶのが一番ということか。 
     
      明鏡所以照形 , 古事所以知今 
      明鏡は形を照らす所以 , 古事は今を知る所以(『三國志』書 卷五十九)
     
     

    February 11

    素素『流光砕影』

    素素『流光砕影』大連出版社 2008年1月
     
    本書は歴史的建造物を中心に、著者自身の見聞や体験を交えつつ、大連の波乱の近代史を語ったものである。
    著者の素素女史は大連生まれの大連育ちで、大連の歴史的建造物のドキュメント映像『凝固的記憶』の製作にも参加している。
     
    表紙は日本時代の常盤橋(現 青泥洼橋)裏表紙は浪速町(現 天津街)。
     
    以前にも書いたが、現在日本や中国では大連や「満洲国」に関する作品が数限りなく出版されているが、そのほとんどは外来者たる日本人の思い出話か、中国中央政府のワンパターンな公式見解を引き写したものでしかなく、地元人- 東北人 dongbeiyin  -の視点で書かれたものは意外と少ない。
     
    だが、本書はそれらとは全く異なり、地元大連人ならではの視点と情報がふんだんに盛り込まれている。例えばある建築物について取り上げる際には、ただ「これは日本時代の○○で~」といったような略歴を語るだけでなく、実際に人が生活していた様子や大連の庶民たちの悲喜こもごもな生き様、そして作者自身のその建物にまつわる思い出話も交えて、いきいきと描写している。
     
    そして、この手の書物にありがちな高遠なイデオロギー臭がなく、地に足がついた文章なのも好感度大。
     
    面白かったのは駅前の大連商場の戦前の写真。私もたまに買い物に行くが、まさかそんな昔からあったとは・・・・・・。
    そういえば去年の暮れに七十一周年記念セールやってましたけど。
     
     
    大連の歴史に興味のある方は買って損はないと思う。
    October 28

    常林、白鶴群『北京西山健鋭営』

    常林、白鶴群『北京西山健鋭営』学苑出版社(北京) 2006年7月
     
     この間阿敏さんのご紹介で購入、先週読了。
     
     北京の西北、香山のふもとにあった八旗の攻城戦専門部隊「健鋭営」の歴史と旗人たちの生活ぶり、現存する史跡などについて、豊富な写真、復元図、絵画を交えて紹介。
     著者の常林、白鶴群両氏は共に北京出身の満洲族、特に白氏は健鋭営の末裔であり、地の利を生かした調査、研究により、清代旗人の生活ぶりや風俗習慣、そして現代の健鋭営の状況につきかなり詳細かつ具体的に記述している。
     
     
     本書はあくまで一般読者向けの概説書であり、注や参考文献リストが付されていないのが惜しまれるが、八旗制度ならびに清代から現代にまで至る満洲族(旗人)の生きた生活史を知る上で欠かせない。
     
     以下、内容を紹介する。
     
     本書は全3章からなり、第一章「満洲的旗営」では、まず八旗制度の概説と、次に八旗が次第に専門分化して編成された各部隊(旗営)すなわち、八旗駐防、禁旅八旗、八旗都統衙門、行営、歩軍営、前鋒営、護軍営、神器営、水師営、虎槍営、善撲営と北京城外西北に位置する円明園護軍営、火器営(外火器営)それぞれの沿革、官制、任務内容等につき『会典』などの政書や現地調査の成果にもとづき記述。
     
     特に円明園護軍営、火器営(外火器営)は、健鋭営と位置的にも近く、関係も深いので、第二章への導入として特に詳細な説明が加えられている。私の修士論文のテーマは火器営だったので、この部分は非常に面白かった。

     火器営の地図「火器営八旗営房示意図」は、清代の様子を知る上で非常に役立つ(2000年ごろまで基本的な地割はほぼ残存)。
     (10年前にこの本が出ていればあんなに苦労することはなかったのに)
     
     また本章では、杭州、広州、福州、西安の駐防の沿革、旗人の暮らしぶりと現状についてもやや詳しく触れており、そこから旗人・満洲族の生活史全般への理解が深まる仕掛けになっている。
     
     
     第二章「飛虎雲梯健鋭営」では、全九節にわたり健鋭営の歴史、戦歴と現状を述べている。
    (一)「組建健鋭営」では、第一次金川の役で現地チベット族(嘉戎(ギャロン)蔵族)のたてこもる碉楼(石造りの高楼)に苦しめられた経験から、「香山雲梯兵」、さらに健鋭営が編成された経緯について述べる。
     
    (二)「営区布局」では、まず「健鋭営八旗営房布局示意図」で健鋭営の全体的配置を示し、次に健鋭営隷下の八旗旗色ごとに分けられた営房の復元図を示し、各営房内の建物配置や内部状況を解説。特に営房の復元図は非常にわかりやすく描けている。
     
    (三)「軍政管理」では、健鋭営の官制、組織について述べる。組織形態は前鋒営や火器営など他の旗営と共通点が多いことがわかる。
     
    (四)「建築」では、旗営老屋、団城、演武場や金川式の碉楼、井戸など、現存する健鋭営の建築物を写真つきで紹介。
    清末以降の戦乱や大躍進、文革でかなり破壊をこうむったが、最近の文化財保護政策や観光開発の流れを受け、大分修復が進んでいるのがわかる。
     
    (五)「営区生活」では、健鋭営の旗人の生活ぶりについて、1.経済2.住房3.飲食4.服飾5.出行6.信仰7.譜牒8.聯姻9.婦女10.選秀女11.教育12.紅事会和白帯子会13.文体活動14.商市 の14項目に分けて紹介。
     これらの内容は非常に豊富、かつ多岐にわたるので、私が個人的に興味を持った点だけを箇条書きにして紹介する。
       
     ・俸禄、禄米
     俸禄の種類と額が詳細に記されている。 
     上級旗人には新米、下級旗人には古米が与えられたが、それで健鋭営の旗人は逆に新米より古米の味を好むようになった。
     
    ・住房(住居)
     地位に応じて、家のつくり、面積や部屋数が異なる。
     間取りは西側が上座とされること、万字炕(「コ」の字型に配置されたオンドル)の存在など、東北の満洲族の伝統的家屋と共通した特色がみられる。

      ・飲食
     鼻煙(かぎたばこ)の流行
     餑餑(餃子に似た食品)や
    豚肉を熱湯で煮て、しょうゆやニンニクで味付けした簡素な料理(『韃靼漂流記』にも記載)など、東北地方・満洲族の特色を保持。
     「盒子菜」と呼ばれる一種の弁当のような食品があり、大きな箱の中にいろいろな料理が小分けされてはいっていた。
    山東出身の料理人が売りにやってきて、祝祭日などに食された。

     
    ・信仰
     関羽信仰の盛行。健鋭営のどの旗の営房にも必ず関帝廟が存在。

     尚武の精神を重んずる満洲族にとって武神としての関羽は受け入れられやすく、一種の「万能神」として厚い信仰を 集めた。
     ・婚姻
     火器営や円明園護軍営と通婚することが多かった。
     漢族と比べ、家庭内での女性の地位が高かった。妻の実家の影響力が強い(満洲、モンゴル族に見られる特色)。
     
     
     ・教育、文化活動
     官営の義学(官学)、健鋭営各旗ごとに学房を設置。
     女子にも教育の機会が開かれていた。
     教師たちは学問を教えること以外にも、説書(評書。日本の講談にあたる)も行っていた。
       説書は『三国演義』や『岳飛伝』(説岳全伝)、『三侠五義』など忠君愛国的内容の物語が主体。
     『水滸伝』は厳禁。
     
     体育活動としては、狩猟や重量挙げ、鉄棒(のような運動)やモンゴル相撲など。
     音楽は、八角鼓が流行。
     鳥やコオロギを飼う旗人も多かった。

     ・紅事会と白帯子会
     会員から集めた金を積み立てて、会員の家の結婚式や葬儀の資金とする互助会。
     
     ・商市(市場)
     健鋭営、火器営、円明園護軍営の「外三営」付近には、旗人の購買力にひきつけられた多くの商人たちが集結。
     それにより樹村、青龍橋、西苑、藍靛廠、肖家河など多くの繁華街が誕生、北京西北の一大商業センターに。
     民国時代、八旗制度が解体され、旗人の購買力が低下したことにより衰退。
     (六)軍事訓練
     雲梯で迅速に碉楼にのぼり、占領する訓練が主体。
     健鋭営内での各旗対抗の競技会も行われた。
     その他、騎射、歩射、馬術、競馬、火縄銃の射撃など。
     
    (七)重大征戦
     健鋭営の主要な戦歴について述べる。
     第一次金川の役(乾隆十二年  1747)から、ジューンガル部平定、ビルマ、第二次金川の役、甘粛のムスリム反乱、台湾の林爽文の乱、グルカ(ネパール)遠征、白蓮教徒の乱、太平天国、 捻軍、第二次アヘン戦争、日清戦争、義和団(八カ国連合軍との戦闘)、そして民国時代には「新軍」の一部として外モンゴル独立阻止のため庫倫(現ウランバートル)へ。
     
     『平定金川図冊』、『平定台湾戦図冊』、『平定廓爾喀戦図冊』などの絵画史料をカラーで紹介してあり、非常にわかりやすい。
     
     健鋭営は火器営やソロン兵と同じく精鋭部隊として、非常に重視されていた。
     そしてこれらの部隊は、同時に同じ場所に投入されるケースが非常に多かった。
     (火器営は健鋭営が攻城戦を行う際の突撃支援射撃担当か?)

    (八)軍事将領
     著者の統計によれば、清代の健鋭営出身の高官、将軍は66人にも上る(領侍衛内大臣、掌鑾儀衛事内大臣9人、都統、将軍、提督33人、統領、副都統、総兵23人、布政使1人)。
     巻末に付録として、66人の一覧表あり。
     その規模(約3000世帯、兵員4000名)に対し、異例の多さ。
     
     著者はその要因を五項に整理。
     
      1.特殊部隊として朝廷から重視されていたこと
      健鋭営は、戦争(紛争、反乱)発生、または一般の部隊が苦戦している場所にいち早く派遣される一種の「緊急展開部隊(特种应急部队)」であった(私の考えでは、火器営もそういった性格の部隊だったと思われる)。
      そのため、常に有力な近臣により指揮され、柔軟な運用が可能となり、思う存分実力を発揮できた。  
       
     2.皇帝のお気に入り部隊であり、昇進に有利だった
      特に創立者である乾隆帝はしばしば部隊視察に訪れ、将兵を激励。
      前述の66人のうち、乾隆、嘉慶、道光年間に生きたものは58人、咸豊、同治、光緒年間の人物は8人に過ぎない。
      66人のうち乾隆年間に官歴の起点が存在するものは49人。
     
     3.厳格な訓練
      健鋭営の訓練場は当時としては一流の環境。
      そこで厳格な訓練を施され、高い技量を身につけていたるところで活躍。
     
     4.度重なる戦争。
      度重なる戦争が健鋭営将兵に実力発揮の機会を与えた。
      また、清軍の上級指揮官が大量に戦死したことにより、穴埋めの必要が生じ、健鋭営出身者が緑営の総兵はじめ他部隊の指揮官に抜擢されることも多かった。
     
     5.清王朝の特殊な政策
      清の人事政策では、八旗出身、特に満洲八旗、上三旗出身者が優遇された。
      前述の66人のうち、満洲族は49人、モンゴル族16人、漢族1人。上三旗出身45人、下五旗出身は20名、その他1人。
      また、父祖が功績によって得た爵位、職位の世襲が可能であり、将軍、高官の子弟はスタートラインから優位に立てた。
      さらに実力主義的な賞罰制度により優秀な兵士が将軍となる道が開かれていた。
    (九)多民族的健鋭営
     1.「番子営」の歴史
     健鋭営に存在する金川人の部隊「番子営」(番子佐領)の歴史につき、文献資料と番子営、金川での現地調査により詳述。番子営は、第一次、第二次金川の役の捕虜となった「番民」(嘉戎蔵族)が、香山のふもとに住まわされたことに始まる。
     彼らは八旗の管轄下で生活し、彼らの生活場所は「番子営」、「苗子営」あるいは「小営」とよばれ、彼ら自身は「寨子」と自称した。
     
     第一次金川の役後に入京した「番人」は、碉楼を造る工匠だけであり、人数は多くなかった。その目的は金川の碉楼の研究であった。
     第二次金川の役後の入京者は、楽工(楽団)が多く、その中には女性や子供も含まれていた。
     彼らは歌舞が得意でしばしば円明園(のち頥和園)に呼ばれて、宴会で「番子楽」の公演を行った。彼らはいわば大小金川からの「貢物」だった。
     
     彼らが香山のふもとに住まわされた理由は山岳地帯での生活になれていたことと、楽工が円明園に出向くのに便利な場所だったことにもよる。
     
     著者の1960、62年の「寨子」調査によれば、寨子はそれほど広い場所ではなくガチョウの卵のような形状で、内部には碉楼や塔などチベット式の建築が残存しており、寨子内の生活習慣、服飾はすでに北京のその他地域と変わらないものになっていた。
     
     金川人がどの民族に属するかについては、1960年代まで議論が続き、苗(ミャオ)族、チベット族、壮(チワン)族など諸説が乱れ飛んだ。
     現在はチベット族、羌族として分類規定されているが、
    著者はその独特の歴史的背景と文化から彼らを古羌人の一派である土着ギャロン人とみなし、その他のチベット族とは区別している。著者は本文中でも主に「金川人」、「嘉戎(ギャロン)蔵族」(現地人の自称)という呼称を使用し、あえて「蔵族(チベット族)」という言葉を避けている。
     (これはこれで、一理あると思う。中国における「民族」はあくまで行政的分類区分であり、本人たちの帰属意識や歴史的背景とは必ずしも一致しない)
     
     著者は、三度にわたる大、小金川現地調査の成果に基づき、大、小金川の独特の地理環境と歴史、ボン教(奔布爾教)色が濃厚な信仰形態、そして独特の風俗習慣など、かなり突っ込んだ記述を行っている。金川のボン教はすでに仏教との習合が進んでいるとはいえ、依然多神教、シャーマニズム、呪術的要素が強い。

     
     面白かったのは、チベット仏教の活仏は妻を娶らず転生により継承が行われ、活仏は寺廟内部の仕事のみ担当するのに対し、金川人のボン教ではラマが妻を娶り、世襲制により継承が行われ、寺廟内部の仕事だけでなく寨、村落のさまざまな事務も担当し、精神的リーダーとなっていたこと。
     そのため金川の役の時、ボン教とラマが金川人の結束のよりどころとなり、それにより清軍をたびたび撃退できた。
     ボン教の呪術的要素から金川、清軍双方でボン教のラマが敵を呪うため利用された。
      
     また現在の碉楼は清代のものとはかなり異なった構造であることを紹介している点も面白かった。
     
     金川は農奴制社会であり、土司と「大頭人」以下、最下層の農奴までが密接に結びつき、団結力が非常に強かった点にも触れている。
     戦時の際は、一戸ごとに一人を出し、武器を自弁、また金川人は高い冶金技術をもち、刀剣、銃、弓矢、石弓などの武器を製造した
     (私が大学院時代に読んだ史料では、中国内地からの密輸品も多かったらしい)。

     金川人の「番兵」は、清朝に投降したあとも、グルカ(ネパール)、台湾、甘粛など色々な場所で活躍した。
     
     北京香山の「番子営」は、一定数の石匠、銀匠、ラマ以外は、他の八旗兵丁と同じく兵役や雑務に従事。
     そして、老若男女すべてが宮廷で「番子楽」の公演を行わねばならなかった。
     
     興味深いことに、中華人民共和国成立後、「番子営」の金川ギャロン人の多くは「苗族」として登録、「蔵族」は一人もいなかったという
    (著者はある「一定の政治的、歴史的原因」が存在したのではないかとしている)。
     
     2.蒙古旗人、シベ族のチベット仏教寺院
     
     3.船営
     健鋭営は頥和園付近にあった湖(現在は陸地化)で水戦の演習も行い、「健鋭営八旗水師」と呼ばれ、天津、福建の水師(水軍)から漢人教官が招かれた。
     その場所には今でも「船営」という地名が残存。
      
     光緒年間に、漢人の北洋水師に対抗して満洲旗人の海軍軍人を養成すべく、頥和園の昆明湖西岸に水操学堂が設置された。
     学生は健鋭営や外火器営の旗人から募集され、卒業生は日清戦争にも参加。日清戦争敗北後廃止。
      
      
     4.勇敢なソロン人
     ソロン;満洲語で「射手」を意味し、現在のダグール、エヴェンキ、オロチョンなどの民族の総称で、健鋭営とともに勇戦敢闘した。
     
     第三章「清帝退位後的健鋭営」では、清朝が滅亡し、八旗制度が解体されていく中で、旗人たちが漢人からの差別や生活苦にあえぐ様子や慈善家の熊希齢による援助につき述べている。
     そして、著者は清朝と八旗、ひいては健鋭営の「民族団結」や中華民族への貢献を大いに強調し、最後に現在の健鋭営の様子に触れて、結びとしている。この部分は、漢族を中心とする現代中国人の清朝、満洲族へのマイナスイメージへの強い抗議であろう。
     
     

     全体的に非常に面白く読めた。
     一般向けの本で八旗制度についてこれほど詳しい本も珍しいのでは。
    清朝史、特に八旗制度に興味のある方は必読。

     
     欠点はやはり、注や参考文献リストが付されていないこと。
     本書に含まれる情報量が多いだけに、参考文献リストや注をつけて、興味を持った読者のために研究の糸口を提供するべきだと思うのだが。
     

    October 14

    劉正愛『民族生成の歴史人類学―満洲・旗人・満族―』



    劉正愛『民族生成の歴史人類学―満洲・旗人・満族―』風響社 2006年3月

     


    3ヶ月ほど前に発見し、最近読了。

     

    中国における「民族」概念の特殊性やその特殊性からくる「満族アイデンティティ」の創造について、遼寧省および福建省福州、琴江村におけるフィールドワークの成果を交えつつ実証的に分析している。

    遼寧省出身の著者は、政府主導の民族政策や少数民族文化をブランド化する観光開発の中で、これまで生活の中であまり意識されてこなかった「満族」が突然「発見」されていく過程に興味をもち、それが満族研究のきっかけとなったという。

     

    まず序論と第一章で「民族」概念について論じ、中国における「民族」とは、国家の「民族識別工作」により分類されたもの、すなわち国家により承認された行政的区分であり、人類学の概念における民族 ethnic group とは異なることを指摘している。戸籍には民族の欄があり、その情報は国の行政管理や福利厚生(優遇政策)のために用いられる。本人の意識がどうあれ、通常は一生「○○族」として生きていかねばならない。

    だが、著者は一方で、国家によって与えられた「民族」という枠組みによって漢族から差異化された満族(少数民族)が、被差別意識を持ちつつこれを逆用し、福利厚生の獲得や自己のアイデンティティの強化を図るしたたかな面もあることにも言及している。

     

    次いで、著者は、これまでの先行研究においては満族を固有の実体(最初からずっとそのままの形で存在し続けているかのように)として捉える傾向が強く、アイデンティティの多様さへの分析が欠如していると指摘している。

     

    本文ではフィールドワークによる豊富な実例が紹介されており、満族はともすれば一元的に語られがちであるが、実際は満族の中でも八旗満洲と八旗漢軍の子孫、東北とそれ以外の地区(駐防八旗)における満族はアイデンティティの表出においてそれぞれかなり違った様相を見せており、決して一枚岩ではないことを明らかにしている。

    満族の起源である八旗制度においても、女真族だけでなく、モンゴル人、漢人、朝鮮人など多様な要素を取り込んでおり、決して一元的ではない。

    近代国家により「旗人」が「満族」として分類規定された後も、これまで「漢族」として登録していた人々が大量に「満族」へと登録換えしており、彼らはそれまでの「漢族」と現在の「満族」という二重の意識を持っている場合が多い。

    特に、漢軍旗人の子孫は「旗人」でありながら「民人(一般漢人)」と同じ文化的起源を持つがゆえ、常に「満族」と「漢族」との間で揺れ動く存在であった。 

     

     

    さらに、新賓のヘトアラ城を例に、観光の場における「満族ブランド」の生成と満族観の再生産、それによって起こる満族アイデンティティの強化についても言及している。

    著者の分析は以下のとおり。

    政府や観光業者は観光開発のため、東北地方の断片的な文化要素と歴史記憶、歴史史料から必要なものを選択構成して、周囲の漢族とは異なる「満族の歴史・文化」という商品として売り出し、多くの観光客と経済利益を得る。

    しかし、いったん「商品」として開発された「満族の歴史・文化」は、商品性を離れ、満族文化を表象する有力な手段となり、商品性は政治性を帯びるようになる。新たに開発された「満族の歴史・文化」は輝かしい清王朝と結び付けられ、国家により与えられた「少数民族」の枠を超え、 満族アイデンティティのよりどころとなった。

     

     

     

    著者の視点は、満族には固定された特徴的アイデンティティは決して存在せず、「その多様さが特徴であるといわざるを得ない」というもので、かつ満族を固定、固有の実体としてではなく、常に形成的プロセスをたどっている動的実体として捉えている。

    そして、中国では「正史」をはじめとする豊富な文字記録を有するがゆえに口承伝承、オーラルヒストリーが軽視されてきたとし、歴史学と人類学の交流、すなわち歴史人類学により民衆の生きた歴史の研究を行うことが満族研究にとって有効な方法となりうるとしている。

     

    結論として著者は、国家による「民族」の創出と「作られる」ことへの少数民族側の積極的呼応、国家により「創出」された「民族」への少数民族の「想像」(漢族との文化的差異化)の側面という、二つあるいはそれ以上の力学を視野に入れて、はじめて中国における少数民族の本質を理解することができると主張する。

     

     

     

     

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     

    私も著者の意見には賛成。私自身も東北で生活していて満族の友人知人も多いが、彼らのアイデンティティや民族意識は結局「人それぞれ」であって、はっきりした特徴は見受けられない。

     

    政府主導の「満族ブランド」観光開発は、私も瀋陽への留学中につぶさに見聞している。

    瀋陽故宮付近はこれまでは一般家屋が密集していたが、最近は「大清一条街」という清朝風の町並みやかつての城門が「復元」され、太平寺(錫伯家廟)や北陵などその他の史跡にもヌルハチやホンタイジの像が建てられている。

    瀋陽故宮では清朝の儀式が再演され、見回りのガードマンは侍衛の服装を身にまとっている。八旗をプリントしたTシャツなど「満族風」みやげ物も増えた。

    お店の屋号も「大清」や「八旗」、「満族」と銘打つものが激増。

    瀋陽故宮と関外三陵は世界遺産となり、マスコミは清朝、満族史の宣伝に努める。

    東北の一般的な伝統料理をわざわざ「満族風味」として売り出す(私の彼女(漢族)いわく「全部普通の料理じゃないの?」)

    などなど、数え上げればきりがない。

     

    本書でも少し触れているが、過去の発展を支えた重厚長大型産業構造が行き詰まりを見せている東北にとり、観光開発は経済振興の至上命題である。

    また、清朝という「過去の栄光」は、経済面で中国南方に立ち遅れている「東北人」にとっては非常に有効なスローガンであり、かつアイデンティティとなりうるという側面もある。 留学中も、清朝の故地でかつ「風水宝地」という瀋陽人のお国自慢を何度か聞かされたことがある(なんでも「ヌルハチが選んだ風水宝地だから日本と違って地震が起きない」そうで・・・・・・)

     

     

    口承伝承、オーラルヒストリー軽視のところは、歴史を専攻したものとしては耳の痛い指摘。私もこれまでずっと文字史料とばかり取っ組みあってきたので、どうしても「士大夫」の視点から歴史を見てしまうところがある。それゆえに、本書の内容は非常に新鮮で、啓発される所が多かった.

     

    機会があれば、今後も本書の内容をどんどん紹介していきたい。

    フィールドワークに基づく情報量がものすごくて、一回や二回ではとても紹介しきれませんので。 

     

     


    August 18

    陳惠運『なぜ中国人は互いに憎み合うのか』

    陳惠運『なぜ中国人は互いに憎み合うのか』飛鳥新社 2007年8月

     

     

    帰国後、ジュンク堂で中国関係の本を探しているとき本書の帯には「実は、中国人が一番嫌っているのは日本人ではありません」という文字があり、思わず手にとって立ち読み。 著者は上海出身の中国人らしい。


    序文を読んでみると、中国人が一番嫌っているのは日本人でもアメリカ人でもなく、実は中国人自身であるという。


    著者いわく

    中華思想が根底にある中華民族は、自分が世界の中心、頂点にあり、他民族も国家も、自分に従属し、自分の部下であるとしか考えていない。しかも、この思想は中国人の自慢で、一人一人の中国人に遺伝しており、彼らはその思想をさらに発展させて、自分が中華民族の代理として世界の中心にいると考えてしまう。そのため、自分の同胞でも相手にせず、見下し嫌悪する(本書p84)


    都市の人間は「田舎者」(郷下人)をさげすみ、田舎者は都市を憎み、金持ちは貧乏人を見下し、貧乏人は金持ちに復讐する。漢族は少数民族への優遇政策に不満を持ち、少数民族は漢族を嫌う。党や政府の幹部は自分を特別扱いし、庶民を見下す。庶民は党や政府を半ば見放している。農民や食品会社は自分が食べるわけではないからということで、農薬まみれの野菜や劣悪な品質の食品を出荷する。役人は国民の公僕ではなく、いまや賄賂まみれの「金持ちの公僕」。


    「憤青」(日本のネットウヨみたいなもん)のネット上での書き込みも、数の上では「反日」よりも中国自身への批判や罵声の方がはるかに多い(実際その通り)。

     

    そして、互いにだましあい、ののしりあい、さげすみあう。幹部や金持ちは自分だけが何をやってもいい「特別な人間」で、貧乏人の人権や命をゴミのように扱う。貧乏人は不正な手段を使ってでもなんとかのし上がろうとしたり、ひどい場合には「世の中への復讐」、つまり金持ちを襲って殺したりする。

     

     

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

    以下、私自身の感想を述べる

    私としてはすべての中国人がそうだとは思わないし、著者の意見は中国の現状を憂うあまりやや悲観的すぎる部分もあるが、うなずける点も多い。本書に述べられていることは、私も中国で常々見たり聞いたり感じたりしていることだから。

     

    三年間中国で暮していつも感じていたことなのだが、中国人や中国という国は愛国愛国と言っている割には同胞への「愛」が足りない気がする。発展の陰で、庶民の怒りが渦を巻いている。

     

    自分は特別な人間で、何をやってもいい。他人の意見や権利などどうでもいい、なぜなら自分は優れた特別な人間、「正義」は自分にあるのだから。
    なにやらドフトエフスキーの『罪と罰』の世界を彷彿とさせる。

    これは確かに日本人に対する態度のほうがある意味まだましかも知れませんね(苦笑)


    以前、ある中国の友人と食事していて、中国の反日デモ等について思わず愚痴をこぼした。その時、彼はやや自嘲気味に言った「(中国人は)自分の同胞にすら気配りできないのに、他国に気配りなんてできるわけないでしょう!」と。

    彼の言葉は強く印象に残っている。
    彼もまた貧しい農村出身だった。

     

    なんとか、調和の取れた社会になってほしいものだが、日本人の私としてはただ「がんばってくれ」としか言えないのが残念だ。


    最近の日本社会も格差問題が顕著になっており、だんだんギスギスしてきた。
    この本を他山の石としたい。

     

    这篇也是“小日本鬼子”的盲言,也是对中国的爱情表现,请原谅!

    作为一个日本人,我实在无能为力,只好说“加油 !”两个字。

     


     

    July 22

    屈春海『清宮档案解読』

     屈春海『清宮档案解読』華文出版社 2007年4月
     
    昨日、大連図書城にて購入。
    冒頭で清朝の文書行政制度と档案史料について概説し(入門として非常に良くできている)、次いで清朝史のいろいろな事件について档案史料をもとにわかりやすく述べている。
     
    まだすべてを精読したわけではないが、興味深い点は以下の通り。
     
    ・载淳皇帝丧仪活动及其死因探秘
    同治帝の葬儀とその死因について、档案を用いて検討。
    残された「脈案」(カルテ)や「進薬档」(処方箋)によれば死因は天然痘であり、梅毒説は信頼できない俗説。
    この章では、同治帝の病状について「脈案」と「進薬档」に基づいて非常に事細かく述べてあり、読んでいて気持ち悪いぐらい。同治帝の天然痘の末期症状が梅毒の晩期に似通っていたことが梅毒説を生んだらしい。
     
    ・皇宫医案破解光绪猝死之谜
    光緒帝の死因について。
    西太后が亡くなる一日前に突然死亡したことから、古くから毒殺、暗殺説が流布。
    だが「脈案」によれば死因は毒殺や突然死ではなく、病状が少しずつ進行して死に到ったもので、西太后の一日前に亡くなったのは単なる偶然。
    (結核や心臓、肝臓の慢性的な病気と免疫力低下による急性感染と推測)。
    1980年に遺体を解剖した結果、外傷はなく、頭髪や頸椎を分析した結果、毒物による中毒症状も見られなかった。
     
    ・真龙天子的医疗与保健
    清代紫禁城内の医療制度について概説。
    皇帝といえども人間、当然病気にはかかる。
     
    ・清代第一贪污大案
    乾隆四十六年(1781)、甘粛省で起こった一大汚職事件を档案史料から読み取っていく。
     
    付表には事件関係者の姓名、官職、任地、原籍、罪名、処罰、その後の運命が記されているが、その多さと横領金額の大きさにびっくり。まさに天文学的数字!
    読んでいて気が遠くなった。
     
    ・清末延长油矿建立述略
    中国最初の近代的油井で、石油化学工業の草分けである陝西省北部の延長油田の設立について。
    日本人技術者を招聘、日本製の設備(日本唯一の産油地帯である新潟県製)を導入し、光緒三十三年(1907)生産開始。
     
    地図で探してみるとかなり辺鄙な場所。清末に日本人がこんなところにまで足をのばしていたとは知らなかった。
     
    外務部档案の契約書に記された日本人技術者の給与や待遇も興味深い。
    最高で月給900銀元、最低60元。その他東京からの往復旅費、食費などがついた。
    休日は月2日、九時間労働、昼夜交代制。 
     
     
    この他にも面白い内容がたくさんあるが、なにぶんまだすべてを読んだわけではないし、内容も多岐にわたるので、ここで全てを紹介することはできない。
     
    一般向けの本としてはかなり詳細な内容だし、読み物としても面白い。
    これからも折にふれて内容を紹介していきたい。
    July 16

    中野美代子『乾隆帝‐その政治の図像学‐』


    最近実家から送ってもらった本。宣和堂様の書評を読んで、無性に読みたくなりまして。
    乾隆帝の残した建築、絵画、詩文、はては「コスプレ」などから、乾隆帝の「イメージ戦略」を読み取ろうとするユニークな本(ちょっと深読みしすぎでは?といった内容もありますけど・・・・・・)
     
    自分は大学院で清朝史、しかも主要な専攻分野が康熙、雍正、乾隆三代の八旗だったので、こういう本はまさに「大当たり!」、読み始めると止まらなくなり二日間で一気に読破してしまった。
     
     以下、興味を持った部分を箇条書きにしてみた。
    第一章「皇胤と母胎の物語」
    ・この章題に「たねとはたけのものがたり」とルビを振るのは、いかにも女性らしい。
    主に乾隆帝と諸皇子たち、后妃、そして皇位継承についての内容。
     
    ・p32の「清朝諸皇子図(順治帝以後)」、p48「乾隆帝后妃表」、p75「乾隆帝諸皇子表」。
     学術書でない一般書で、ここまで詳細な表は見たことがない。清朝史好きの自分としてはうれしい限り。 
     
    ・秘密立太子制度のルーツはペルシャ
     『旧唐書』巻一百九十八 西戎伝 波斯(ペルシャ)国の条に、「その国の王は、即位したらすぐさま、王統を継ぐ才のある子をひそかに選び、その名を記し厳封する。王の死後、大臣が王子たちとともに封をひらき、そこに記してある王子を王としていただく」とあり、雍正帝はこれを参考とした。
     
     ここのところは初耳。なかなか面白い説だと思う。
     
    ・「乾隆帝の后妃画巻」
    アメリカ、クリーブランド美術館蔵の『心写治平』と題された、乾隆帝の十二人の后妃たちの肖像画について。「乾隆元年」と題されてはいるが、実はその時まだ生まれてなかったり、幼児だった后妃も描かれている。実際は数十年にわたり、削除したり描き足したりしている。
     
    ・香妃について
    現在に残る香妃の肖像画を列挙。それぞれ顔が全然ちがう。皇帝、后妃の「肖像画」は簾の陰からわずかに見える影や皇帝の指示に基づき描かれた虚構のもので、必ずしも実像を描き表してはいない。 
    香妃が乾隆帝を寄せ付けなかったというのは俗説。実際は南巡にもたびたび随行するなど寵愛をうけていた。
     
    ・皇嗣決定
    かねてから乾隆六十年(1795)で退位するつもりだった乾隆帝は、退位時に三十六歳という適齢期で、かつ乾隆帝が好きな数字(後述)である二十五年(1760)生まれの永琰(後の嘉慶帝)を太子とした(ほんまかいな!)
     
    ・「二十五」へのこだわり
     『易経』の天数は二十五。
     清初以来の宝璽を整理、「二十五宝」として交泰伝に安置。清は二十五代、500年続くことを祈願。 
     それは東周が二十五代続いた故事にちなんでいた。
      
    第二章「仮装する皇帝」
    ・雍正帝や乾隆帝が漢族のすがたで描かれている。それもいろいろある。
     
    ・雍正帝が西洋風の格好をして、さすまた持って虎狩りをしている絵(『雍正帝行楽図』)
     
     これは必見!
     
    ・著者いわく、漢族の格好をして、漢族の空間に自分を描きこむ絵を通じて、漢族の時空間の領有を宣言している。
     
     いろいろな肖像画を見ているだけで面白い。
     自分としては、単なる「コスプレ」とちゃうの? という気もしますけどね。
     
    第三章「庭園と夷狄の物語」
    ・熱河(承徳)の避暑山荘と外八廟について図や写真を交え詳述。
     
    ・「避暑山荘の政治的トポス」
     ポタラ宮そっくりの「普陀宗乗之廟」。モンゴル、チベットへの懐柔、取り込み。 
    ここのところは、特に目新しい点はないが、おおむね同感。
     
    ・熱河のポタラ宮には軍事的拠点としての機能があったのでは?
    面白い見解だと思う。 
     
    ・「造園皇帝」。避暑山荘や円明園など、生涯にわたり庭園の造営にいれあげる。
     
    ・円明園と西洋楼
     多作で知られる乾隆帝が西洋楼に関する詩を殆ど残していない。
     これは意外だった。
     
    ・外来の西洋人は西洋楼に招き入れなかった
     乾隆帝にとって、この場所は西洋という夷狄を封じ込めた場所。
     
     面白いが、やや深読みしすぎという気がする。
     
    第四章「楽園の中の皇帝」
    ・「ジョホール」は「熱河」。元代の上都「シャンドゥ」がヨーロッパで誤記されて「ザナドゥ」に。
     「ジョホール」と「ザナドゥ」はヨーロッパ人の憧れの楽園に。場所的にも近く、混同されることもあったらしい。
     
    乾隆帝の詩は多作ではあるが文学的価値には乏しい。だが、乾隆帝自身による割注がつけられ、そこには『清高宗実録』や当時の公文書に見られない記述が多々見られ、史料的価値が高い(p60、218)。
     
    ・戦争の様子を銅版画に
    「はじめに詩ありき」。乾隆帝の詩が付されている。実景や事実とのズレはある程度度外視。
     
    ・円明園の線法(透視遠近法)
     ここのところは正直ちんぷんかんぷん。
     
     
    著者は文学、図像学の角度から乾隆帝を見つめており、ユニークな見解が多いが、深読みしすぎでは?という箇所も多々あった。良くも悪くも歴史専門屋には書けない文章。
     
    ただこういった「深読み」ができるということ自体、乾隆という時代の奥深さと多様性を表しているのだろう。
    例えるなら、ものすごく広い庭園で、いくら遊んでも飽きることがない。まさに避暑山荘や円明園といった感じ
     
    清朝史ファンには非常に楽しい本だ。
     
     
     


    July 10

    寺田隆信『紫禁城史話‐中国皇帝政治の檜舞台‐』



    寺田隆信『紫禁城史話―中国皇帝政治の檜舞台―』中公新書 1999

     

    本書の題名からは、紫禁城の建築に関するガイドブックのような印象を受けるが、実際は紫禁城の住人である皇帝たちを軸に明清史を概説したものである。

     

    語り口は単純明快で、中国史にありがちな難しい漢字の用語は極力排除してあり、気軽に読める。 ただ、内容は8割方が清朝史で、明代の紫禁城について知りたい向きにはやや物足りない。これは清朝史の概説書として読むべき本かも。

    それから、康煕~乾隆あたりの内容は著者の師である宮崎市定氏の『雍正帝』(及び宮崎氏ら京大東洋史の研究プロジェクト『雍正時代の研究』)の影響が大きいように思った。

     

    以下、面白かった点を箇条書き

    南京から北京へ
    永楽帝の北京遷都後に造営された紫禁城(すなわち現在の紫禁城)は、明初南京につくられた皇城「紫禁城」のプランを全て踏襲している。それは永楽帝が自己の正当性を明確にするためであった。 ここのところは、他の類書にはあまり見られない記述なので、もう少し詳しく触れてほしかった。

    南京の「紫禁城」は太平天国の乱で破壊され、今では一部の礎石を残すのみ。

    永楽年間に紫禁城造営に活躍した建築家蒯祥の生涯
    卓越した技術で工部左侍郎にまで出世。科挙出身者でない一介の工匠としては破格の待遇。
     
    建築に用いる木材ははるばる南方から輸送

    紫禁城の度重なる火災
    明代の大規模な火災だけでも4回(4回目は李自成による放火)。小規模なものは数知れず。
    そのたびに莫大な資金と資源を傾けて再建工事が行なわれ、それが政治家や宦官たちの利権争いの的となった。そしてその負担はすべて人民にのしかかった。
    明の嘉靖帝は、大火にみまわれた宮殿の焼け跡で「大明は火に滅ぶなり」と嘆いたとか。そして清代にも何度も火災に見舞われている。 
     

    乾隆帝と香妃の関係
    著者は「両者は必ずしも敵対的な関係ではなかったのでは」と推測。


    乾隆帝の華麗なる生活
    食費は一年間で三万数千両。役畜であるという理由で牛肉は食べず、羊・豚・鶏・鴨肉がメインディッシュに。餑餑(ぎょうざの一種)が好物。海産物はあまり食べない。


    養心殿と三希堂。文物収集
    三希堂はわずか4畳半ぐらいの狭い場所。大きな空間になれた皇帝は、こじんまりしたスペースを好む?


    「文明の主宰者」としての清朝皇帝
    彼らは漢人以上に漢族文明を学び、愛した。彼らは学者文人になろうと努力し、文明の主宰者として、 文明の担当者たる官僚(士大夫)の上に立とうとした。


     西太后と「エホナラの呪い」
    ―ヌルハチの女真族統一に最後まで抵抗したエホナラ(イェヘナラ)氏の族長は死ぬ前に「エホナラに女一人でも残ったら必ず愛新覚羅を滅ぼす」と叫んだ。西太后はそのエホナラ氏出身であり、本当に清を滅ぼした―

    当時そういううわさがあったのは事実だが、はっきりいって眉唾。本書でもあくまで野史のエピソードと断っている。

    ※本気にしている人がいるといけないので一応注記しておくと、「呪い」は多くの本にあたかも事実のように記載されているが、清朝初期の資料にはそんな記述は一切ない。ホンタイジの生母はエホナラ出身だし、先ほどの族長の一族も、族長本人を除きほとんど助命されている。そして彼らはヌルハチに服属した後も有力氏族でありつづけ、多くの妃や宰相、高官を輩出している。

    これはどうも反西太后派が広めたデマが元ネタらしい。


    April 29

    クリスティー著 矢内原忠雄訳『奉天三十年』上、下


    岩波新書 1938年11月
     
    以前、大阪の古本屋で発見してすぐ購入したあと、長らく「積ん読」状態になっていたが、3月に帰国したさいに実家で「発掘」に成功。
    ついこの間読了。
     
    本書は、1882年スコットランドから奉天(現在の瀋陽)にやってきた宣教師・医師であるクリスティーが、19世紀末から辛亥革命後までの約30年間にわたる布教活動と医療活動、そして日清戦争から義和団、日露戦争、辛亥革命に至る激動の時代における奉天の様相をつづった回想録。
     
    詳しい内容は省き、とりあえず自分が興味を持った点を要約(なお書評には「支那」という言葉が頻出しますが、これはあくまで『奉天三十年』本文中の用語として引用したものであり、本ブログの管理人には何ら差別的意図のないことをお断りしておきます)
     
    ・当時の「満洲」、特に奉天の庶民のすさまじい排外意識、西洋文明への偏見との戦い。
     クリスティーはそういった障害と粘り強く戦い、地道な医療活動を通じ次第に現地人の信頼を勝ち取っていく。
     30年後には、西洋医学は奉天において確かな信頼を確立するにいたった。
     
    ・当時の中国医学への批判
     消毒していない針を刺すハリ治療や有害な膏薬、外科や解剖学の知識がまるでない医師。 
     迷信の横行や医師の言いつけをまるで守らない患者、痰を吐き散らす風習が結核を広めるなどなど。
     しかし、マッサージや漢方薬の有効性は著者も認めている。 
     
    ・中国人の「驚嘆すべき回復力」
     ヨーロッパ人なら致命傷になる負傷でも、患部を接合しただけで治ってしまう。
     
    ・「東洋と西洋・誤った判断」 文化の違いについて
     著者は多くの例を挙げているが、興味深いものを5つ。

    ①繁華街で急病にかかり、倒れた人がいても誰も助けない。
     なぜそうなるかというと、もしその病人を助けた場合、助けた者がその病人のすべてに対し責任を負わねばならないから。
     もしその病人が死んでしまった場合、「余計な世話を焼いた者がその男を死なせた」として非難されるし、ひどい場合には葬儀代も支払わせれることもあった。(今の中国でもそういった習慣は残っている。外国人は助けてくれるけど(万が一死なれたら国の面子に関わるので)、同胞にももう少しやさしくなってほしい)
     
    ②中国人の「忘恩」
    以下、少し長くなるがなかなか示唆に富む部分なので引用(上巻p72~p73 旧かな、旧漢字は改めた)。
     
      も一つ支那人に屡々投げかけられる非難は、忘恩ということである。多くの外国人は自分では親切である、仁慈であると思うことをなし、恵深い隣人若しくは福の神の役をつとめたつもりでも、彼等から恩恵を施された当の支那人は感謝せず、甚だしきは嫌悪の念を以て彼に報いる。こうしたことが起るのは、大抵の場合与うるものと与えられるものとの間にお互の理解がないからだ。支那人は考える、外国人はその為すところに対して報酬を受けているのだ、もしくはなにか裏面に動機があるのだ、何も感謝する理由はないではないかと。或いは恩恵の施し方が、彼等を怒らせたのかも知れない。彼等はそれを口に出して言うには余りに慇懃だが、さりとて感謝するところまでは行きかねているのである。
      支那人は自分が親切に待遇され、自分が何等要求権を有たざる物を受けたことを知れば、彼等の感謝は深甚且実際的である。我々は病院でこの事を三十年間経験した。実際、本国の慈善病院や病院に於けるよりも遙かに大なる感謝を受けたのである。
    (後略。以下著者は多くの貧しい中国人患者が退院後たくさんのお礼を持ってきてくれたことを記す)。
    ③もの惜しみしない。
     寄付や贈答は分不相応なほど奮発。
     
    ④開放的な、自然的な、盛大なるもてなし
     とにかくもてなし上手。親切。
     
    ⑤道理を非常に重んずる。
      
    ・煩雑な礼儀作法
     クリスティーも大官たちや一般庶民とのつきあいでいろいろ苦労したらしい。
     
    ・日清戦争、「拳匪」(義和団)、日露戦争やペストの流行、アヘンで庶民にもたらされた惨禍。
    このへんの描写は読んでいて悲しく、やるせない気分になってくる。やはり戦争で真っ先にひどい目に遭うのは庶民だ。ページをめくるたびに人間の醜さや愚かさが身にしみるが、クリスティーや奉天の人々は激動の時代の中で常に前向きに困難に立ち向かい、多くの患者を救っていった。
    なんだか「シンドラーのリスト」を思い出す。
     
    ・日本へのやや批判的な視点
    日清・日露戦争での日本軍の規律正しさを評価する一方で、日露戦争後に勝利におごり高ぶった日本人が中国人を見下し、征服者としてふるまい、現地人に嫌われている様子を批判。また、多くの現地人が中国本土への帰属を望み、日本を警戒の目で見ていたことも記してある。
    (こんな本を戦前に出版するとは勇気が要っただろう)
     
    ・歴代の奉天将軍・総督に対する人物評
    趙爾巽や張作霖に対する高評価が面白い。
    特に趙爾巽については多くのページを割いて、彼の有能さと清廉潔白、開明的な姿勢が奉天の近代化に貢献したとしている。
    当時を知る貴重な証言。
     
     
    現在の価値観からみれば不適当な描写もみられるが、著者の奉天庶民に対する人間愛が行間からあふれており、そのあたりが、自由主義者でありクリスチャンでもあった矢内原忠雄に翻訳の筆を執らせた理由のようだ。 
    訳者序文では満洲国を讃えるようなことも書いている(そう書かざるを得なかった)が、同時に中国人への人間愛を強く呼びかけ、さらに日本にやや批判的な本書を訳したあたりにそれがうかがえる。
     


    January 25

    横山宏章『中華民国-賢人支配の善政主義-』

    最近読んだ本。
     
     
    民国時代、孫文と中国国民党を貫いていたのは徳と能力を兼ね備えた「賢人」が政治能力のない愚かな人民を導くという思想であり、著者はこれを「賢人支配の善政主義」と呼んでいる。この思想は中国で古くから受け継がれてきたものだった。
     
    孫文は中国人民に対し抜きがたい不信感、愚民観をもち、議会制民主主義には非常に否定的だった。本書に書かれていることを要約すると、彼の思想は先覚者たる自分とその忠実な前衛党たる国民党が愚かな人民に代わって政治を行い、中国の統一と発展を実現し、人民の資質が向上したのちはじめて人民に主権を返還するというものだった。
     
    その後、「民主と憲政」を求める声と「賢人支配の善政主義」とのせめぎ合い、さらには軍閥割拠、共産党や労働運動の発展、日本の侵略とその後の内戦などをへて、民国は複雑な歴史をたどっていく。
     
    そしてこの「賢人支配の善政主義」は形を変えて現在の共産党政権にも受け継がれている。
     
     
     
     
     
    著者の意見は、やや単純に割り切りすぎという気もするがおおむね同感。

    自分もこれまで多くの中国人に「中国も民主化して議会制民主主義にしたら」という疑問をぶつけてきたが、上は共産党員、エリートから下は一般庶民までほとんどの人がみんな異口同音に「人民に好き勝手させたら何をするかわからん!」っていうしねえ。
     
    中国人が議会制民主主義に向いているのかどうか、現在のところ自分には判らない。
    だが、中国で3年暮らしてきた感覚からいえば、この国は結局すべて「中国特色」,
    つまり中国式で行くしかないのではと思う。
    民主主義にしてもやはり「中国特色」で少しずつ進んでいくしかないのだろう。
     
     
    横山宏章『中華民国-賢人支配の善政主義-』中公新書1394 1997
     
    November 19

    入江曜子『溥儀-清朝最後の皇帝-』



    入江曜子『溥儀―清朝最後の皇帝―』岩波新書(新赤版)1027 2006年7月20日
     
     
     
    昨日読了。
     
    溥儀の自伝『わが半生』の共同執筆者(ゴーストライター)李文達が利用できなかった日本側の史料と、溥儀の周りの親族、関係者の証言を元につづった溥儀の生涯。これまであまり知られていなかった興味深いエピソードをふんだんに紹介している。

    ただ、本書は『わが半生』やこれまでの学説を新史料、新証言で補うという姿勢で書かれているので、溥儀や満洲国に関する予備知識がなければわかりづらい点が多い。
    したがって、溥儀の生涯についてあまり詳しくない方は、まず『わが半生』や中国近現代史に関する概説書を先に読んでからにしたほうがいいだろう。
     
    以下、興味を持ったエピソードを箇条書き。
     
    『わが半生』では、小朝廷~満洲国時代の「皇后」、「妃」との関係が非常にそっけなく描かれているが、これは李淑賢(生涯最後の妻)との再婚を控えていたためでもあった。
     
    紫禁城を追い出された溥儀は、日本公使館を経て天津に行き、日本への亡命を図る。溥儀は日本郵船の一等船室を予約したが、当時の天津総領事吉田茂(後の首相)が郵船に圧力をかけて渡航を阻止した。
     
    譚玉齢の死は日本の毒殺によるものではなく、内廷(後宮)の漢方医の誤診が原因。日本の医師が駆けつけたときにはすでに手遅れの状態であった。また溥儀自身も後に李文達に話しているが、彼女は抗日思想の持ち主ではなく、したがって日本側もわざわざ彼女を毒殺する理由はない。
     
    溥儀は日本皇室との通婚を望むなど、極力天皇への忠誠を演じた。これは、自分を日本皇室と同等の位置に置くことにより、満洲国の日本官吏や関東軍に対し少しでも優位に経ちたいという計算だった。
     
     
    満洲国崩壊後、溥儀と皇族、満洲国の高官は日本への亡命を図るが、奉天(瀋陽)でソ連軍に拘束される。
    このとき、関東軍とソ連軍との間に溥儀を引き渡す密約があったという説がある。
    (詳しくは別項で)
     
    ソ連に抑留されたときは、逆に共産主義思想の勉強会を開いたり、贈り物を贈ったりしてソ連に擦り寄った。
     
    溥儀は『わが半生』で、自分を暗君として描いているが、これは責任回避のための計算
     
    『わが半生』の編集作業。李文達は溥儀の原稿をかなり手直しし、史料も出版者のスタッフが八方手を尽くして集める。
    まさに「国家的事業」だった。
     
    溥儀と日本人との会見。対外的には中国の広告塔として老練な発言を見せる。
     
    晩年は文革のあおりを受け、十分な医療を受けられなかった。なぜなら医師も看護婦も「皇帝」とはかかわり合いになりたくないので、治療に消極的だったから。

     

    このほかにも興味深いエピソードがてんこ盛りなので、溥儀に興味のある方は読んで損はしないと思う。
     
     
     


    September 06

    論文紹介「噶爾丹統治時期準噶爾與清朝的貿易往來」

    「噶爾丹統治時期準噶爾與清朝的貿易往来」黒龍 
    (『衛拉特研究』(烏魯木斉)2006年第2期 P11~P17 転載『複印報刊資料』明清史 2006.7 中国人民大学書報資料中心)
     
     
     ガルダン(噶爾丹)と清朝は大規模な戦争を行う一方で、長期間にわたって貿易も行っていた。だが、戦争の研究が活況を呈する一方で、両国間の貿易関係に関する研究はあまり進んでいない。それは直接的には史料の欠乏、さらには史料自体も多様な言語で書かれているためにその価値を生かしきれていないことにもよる。
     
      
     本文は全三章に別れ、第一章では『西域図志』や佐口透氏らの先行研究に基づき、ジューンガルと内地の貿易関係を概観。絹織物、茶、大黄(胃腸薬)といった中国内地の産品がジューンガル(準噶爾)にとってきわめて重要であったこと、一方清朝も三藩の乱などにより大量の軍馬を必要としたため、両国間に相互依存の関係が生まれていたことを指摘する。
     
     第二章では、こういった背景の下、ガルダンと康熙帝双方が貿易関係の拡大に大きな努力を払い、北京、西寧などでの貿易が明代のエセン以来の大きな活況を呈していた状況を明らかにしている。著者は内閣のモンゴル語档案(ガルダンへの書簡)を例に挙げ、当時ガルダンと康熙帝の間にまれに見る深い信頼関係が生まれていたことを明らかにする。
      だが、三藩の乱平定後は清側も北京に入る隊商の人数を制限するなど、ガルダンへの態度をしだいに変えていき、両国間の戦争により貿易関係は断絶した。
     
     第三章で著者はさらに一歩進んで、ガルダンと清の貿易関係を「朝貢貿易」と捉える見方に異議を唱え、両国間の貿易関係は臣属関係を前提としない「互市貿易」であったとしている。
     
     著者はまず朝貢貿易は明に多大な経済的負担をもたらしながら、貿易によりモンゴルをコントロールするという所期の目的も達成できなかったため、明末以降は朝貢と貿易がしだいに分離していったことを指摘。
     次いで、ジューンガル部歴代統治者と清朝との間でやりとりされたモンゴル語書簡の言葉遣いを例に、当時ジューンガル部と清朝は臣属(藩属)関係にはなく、ガルダンと清の貿易関係も朝貢と貿易を分離し、経済要素を主とした「互市貿易」だったとする。 
     
     そして、清朝の「大一統思想」(いわゆる中華思想)と正統観念により、清朝皇帝の書簡が「詔勅」、貿易が「朝貢」と記録され、本来対等の貿易が「朝貢貿易」として記録されることになったとしている。
     
     さらに現在、清代のモンゴル語の書簡の中の一般的な敬語が「上書」、「上奏」の文体に漢訳されているため、研究者の誤解をも招いていることも指摘している。
     
      
     このテーマに関しては佐口透氏の研究が著名であるが、本論文は最近続々と整理・刊行されている清代のモンゴル語档案を利用している点で注目に値する。 モンゴル語史料では康熙帝とガルダンが割合対等に渡り合っていることが伺えるのが面白かった。
     
     なお、ネルチンスク条約の条約文も満洲語・ロシア語・ラテン語と漢文では言葉遣いがまったく異なっている。前三者の史料では清とロシアが対等に条約を取り決めたとしているが、漢文では中華の皇帝がロシアに詔勅を下す文体に書き換えられている。
     
     今回この論文を読んで、オイラトと清の間にもこのような現象があったと知って、非常に興味深く感じた。 
     
    August 26

    杉山正明『疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元』講談社 中国の歴史08

    杉山正明『疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元』講談社 中国の歴史08 2005
     
    最近、実家から送ってもらった杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元』講談社を読んだ。
     
    おもしろい本です。
    安史の乱以降の北方諸民族(沙陀、ウイグル、キタイ等)の動向を詳述。
    これまで日本ではこういう方面を詳しく書いた本はあまり多くないのでうれしかった。
     
    また、遼(キタイ)についても、単なる征服王朝として片付けず、文化面も高く評価している。
    ただ、もう少し証拠を示してほしかった。遼三彩や壁画だけでは不充分。私は遼寧省博物館で遼三彩はじめ遼代の文物を多く見ているが、宋の文物に比べるとやっぱり見劣りするのは事実なのだが・・・・・・
     
    さらに、「澶淵の盟」に象徴される中華政権と異民族政権の並存状況に注目し、これを国際共存の知恵として高く評価しているのは興味深かった。昔はややもすれば「金で平和を買った」とかいって、否定的に評価する人も多かった。だが、実際はそんな単純なものでもなかったようだ。
     
    以下、欠点を述べる。
     
    なんというか「杉山節」炸裂! といった感じ。
    キタイやモンゴルの役割を強調するのはけっこうだが、あまりにも偏りすぎ。
    まあ本人は確信犯でやってはるんやろね。
     
    著者は華夷思想に対してかなり憤っていて、本文でもしばしば漢文史料の文飾を批判したり、漢族知識人(特に司馬光)をけなしまくっている。
     
    私も学部と修士課程で清朝史をやっていて漢文史料の文飾にはさんざん苦労させられた口なんで、気持ちは大変良くわかる。しかし、だからといって歴史を書くのにあまり好悪の感情をあらわにして欲しくはない。
     
     
    それに「余禄」に紙数を割く余裕があるんなら、女真やタングート(西夏)ももう少し書いてほしいなあ。
    金の世宗がお嫌いのようで。
    まあ、女真もモンゴルの敵だからかな?
    『耶律楚材とその時代』でもそうだったが、ペース配分がちょっと間違ってるような気がする。
     
     
    また、宣和堂さんも指摘しているように、さんざん司馬光の悪口言ってるわりには『資治通鑑』からの引用箇所が多い。
    特にキタイ(遼)の耶律尭骨(徳光)の中原進攻作戦の下りは完全に『通鑑』(私も唐末五代部分は通読してますのでね)。
     
    全体的に言って、本書はあくまでモンゴル帝国の構成民族の通史という色彩が強く、女真は女真として、タングートはタングートとして描かれてはいない
    この辺は、現代中国の少数民族史と意外とよく似ている。つまり、あくまで「中華民族」、中華人民共和国の構成要素としての少数民族であり、少数民族をその民族自身として捉えた文献は非常に少ない。また漢族と少数民族の関係のみを強調し、少数民族同士の横の連携は一般にはあまり触れられていない。
    (まあ、漢文史料の豊富さと少数民族史料の不足を考えればやむを得ないのかもしれないが)
     
    私は本書を読んでいて、これは「大漢族主義」が「大モンゴル主義」に入れ替わっただけなのではという気がしてならなかった。
     
     
    宣和堂さまの書評はこちら(勝手にリンク張ってすみません)
    August 22

    論文紹介「論醇親王奕譞」

    「論醇親王奕譞」 潘向明
    (『清史研究』2006年第2期 2006.5 p97~P106)
     
    醇親王奕譞(じゅんしんのう えきけん chun2 qin1wang2 yi4xuan1)
    道光二十年(1840)~光緒十六年(1890)
    道光帝の第七子。妃は慈禧太后(西太后)の妹。光緒帝の実父で、「末代皇帝」宣統帝溥儀の祖父に当たる。

    兄咸豊帝の即位時に醇郡王に封ぜられ、咸豊十一年(1861)に同治帝が即位すると慈禧太后、兄の恭親王奕訢と協力して政敵の粛順を追い落とし(辛酉政変)、要職を歴任、親王にのぼった。同治十三年(1874)、同治帝が跡継ぎを残さずに死去すると、慈禧太后は自身の妹を母とする奕譞の第2子載湉を同治帝の子として即位させた(光緒帝)。奕譞は実子の即位と共に官職を退いたが、光緒六年(1880)のロシアとのイリ問題の処理に当たって再起用。清仏戦争の処理をめぐって恭親王が軍機大臣を罷免されるとかわって政務を執った。

     

    昨日書いた「気になる論文」のひとつ
     

    本論文は全3章からなり、第一章、第二章で奕譞のひととなりと業績を紹介。著者は奕譞の人格と鉄道建設に代表される彼の政治手腕を高く評価し、彼はこれまで語られてきたような凡庸な守旧派などではなく、むしろ有能で開明的な人物であったと強調。近代化に対する「歴史的貢献」を高く評価している。

    そして第三章では、彼への悪評の最大の原因である頤和園修復への海軍予算の流用問題について考証。

    中国では海軍予算「数千万両」の流用が日清戦争の敗戦を招いたとして、慈禧太后と北洋水師(海軍)のトップでもあった奕譞は口を極めて罵られる。だが、著者それを真っ向から否定する。

    著者は、まず長い間流用説の根拠とされてきた『翁同龢日記』中の史料について考証し、先行研究や実録、李鴻章の電報等の諸史料に基づき、その内容は実は北洋水師と全く関係がなかったことを明らかにしている。

    次に海軍予算について検討し、予算規模はせいぜい年数百万両で、しかも実際に支給されたのは一割二割で、他へと流用する余裕など全くなかったことを論証。

    そして、西太后と奕譞が各省の総督、巡撫から資金をかき集めたとき、世論の批判を避けるため「海軍巨款(海軍予算)」という名を借りたことが、海軍予算流用という誤解を生み、後々まで悪評を残すこととなったとしている。

    この部分の論証は読んでいて非常に面白かった。

    最後に、著者は日清戦争の敗戦は経費の問題ではなく、日本に対する備えを怠った国防戦略の誤りが原因であって、この問題と戦争の勝敗は全く関係がないとし、さらに海軍予算「数千万両」流用説のもととなったのは、海外に亡命した康有爲と梁啓超が政敵である西太后を攻撃するための宣伝であり、真実性に欠けると断じている。

    そして、日清戦争の敗因への正しい認識と奕譞への公正な評価を呼びかけて、論文を結んでいる。

     

    数ヶ月前に読んだ、加藤徹『西太后-大清帝国最後の光芒-』でも奕譞は凡庸な保守的人物として描かれていた。現在の中国でもこの見方が一般的であるようだ。

    だが、おとといから昨日にかけてこの論文を読んで、物事にはいろいろな見方があるものだと感心した。人間にはいろいろな面があるし、物事には多種多様な見方がある。

    これが歴史の面白さかもしれない。

    August 21

    あなたの知らない年号-書評『中国歴代年号考』-

    中国歴代年号考(修訂本)
    李崇智 編著 中華書局 2004年12月(初版 1979)
     
    中国ではいわゆる正統とされた王朝以外にも、ありとあらゆる政権が年号を建てている。
    なぜなら年号とは王朝の権力と正統性の象徴であるからだ。
     
    この本は、前漢武帝建元元年(BC140)から1949年の中華人民共和国成立までの年号を時代順に整理している。それだけなら他に似た本がいくらでもあるのだが、この本がすごいのは、中国歴代王朝は言うに及ばず、反乱軍、地方政権、辺境の異民族政権まで含めた全ての年号を網羅していることである。
    本書に掲載された中には、「政権」と呼ぶのもためらわれるほどの小勢力も多いが)
     
    なお、著者は反乱勢力やマイナーな地方政権の年号については根拠となる史料や文献を明記し、考証の過程を読者にしっかり明示している。
    ここのところは非常に好感が持てる。
     
     
    満洲国の「大同」(1932~1934)や「康徳」(1934~1945)が載っているのは中国で出版された本としては異例だが、この程度はまだまだ序の口。
     
    清代だけを取ってみても、本来咸豊の次に来るはずだった幻の年号「祺祥」(西太后らにより「同治」に決定)、さらには清代前半にしばしば世を騒がせた自称「朱三太子」の一人楊起隆が掲げた「広徳」(1673~1680)、呉三桂の「昭武」(1678)、呉世璠の「洪化」(1678~1681)、台湾の朱一貴の「永和」(1721)、林爽文の「天運」(1786)と「順天」(1787~1788)などなど、史料からマイナーな年号を丹念に拾い集めている。わずか数日から数ヶ月で滅亡した反乱軍の年号まで載せてあるのはすごいとしか言いようがない。
     
     
     
    他の時代でも、五胡十六国、南北朝、五代十国の各国、さらに柔然、高昌、渤海、吐蕃、東丹国、西夏、遼(キタイ)、さらにはよほどの中国史通でも知らないような泡沫政権の年号まで、史料を執念深く探し出してしっかり掲載している。
     
    きわめつけは遼の亡命政権である北遼、そして西遼(カラ・キタイ)の年号表。
    ただ、本文の断り書きによれば、西遼の建国時期や紀年には異説がすこぶる多く、『遼史』ですら相互に矛盾する記事が見られるという
     
     
    この本をめくっていると、中国人、さらには多くの民族の年号一つ一つに込めた願いがビリビリ伝わってくる。
    単なる工具書としてだけでなく、一度頭からしっぽまで一通り読み通してみるといいだろう。